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ルビー・ザ・キッド Bullet:27

 ICPOインターポールとFBIと米軍の合同チームによって、草薙マリオがアメリカのアリゾナ州で拘束され、日本に護送されたというニュースが世界中のメディアで流される。
 オリンピックスタジアム・テロと同時多発テロを併せて、死者・行方不明者が六万人、重症者が二万人、家を失った人が五万人を超えるという、史上最多の無差別殺戮を犯した快楽殺人者ルスト・キラーを処刑しろ、裁判なんてすっ飛ばせ、というメッセージがSNSで爆発的に拡散され、公官庁とテレビ局に電話とメールが殺到する。政治家とタレントと動画配信者がその流れを後押しし、二度とこのような人間を日本社会から出さないために、草彅マリオをライブ配信で処刑すべきだと訴える。
 スタジアムのテロで他の家族全員を殺されてしまった小学生が同時多発テロの渋谷駅溶解で安否不明になってる悲劇、生まれたばかりの赤ん坊を新宿駅溶解が引き起こした火災で失った夫婦の嘆き、品川駅溶解の輻射熱で燃えた校舎の跡地で同級生の遺品を探し続ける生き残った学生たちの姿、殉職した自衛官や警察官や米兵たちが家族や恋人に残したメッセージ、PTSDを発症して苦しむ人たちの現状などを、テレビとネットが途切れることなく毎日毎日配信し続け、人々の心に草薙マリオへの怒りと憎しみをたぎらせる。
 そんなヒートアップした状況を知らされないまま、横田基地の地下施設に一週間勾留された後、僕は警視庁公安部のテロ対策課へ引き渡される。麻酔漬けにされてた影響でボンヤリした意識状態のまま、地上出口に横づけされた装甲車みたいな特型警備車に乗せられ、覆面パトカー四台に前後を護られて基地を出る。ゲートの外には大勢の人が集まって怒鳴ったり叫んだりしており、その人垣があふれて押し寄せ、移送の車列を取り囲む。警備者とパトカーの間に入ってボディをバンバン叩いたり、卵を投げたり、ゴミをぶつけたり、デジカメやスマホを窓に突きつけ撮影しようとする人たちを、車体で押しのけるようにして進むことしかできないせいで、目と鼻の先の一般道に出るまで十分以上もかかってしまう。
「・・・どうして、ヘリを使わないんだ?」
 やっと滑らかに走り始めた警備者の振動を背に感じながら、向かいのシートに座っている公安の刑事たちに僕は訊く。誰も答えない。
「こんな雰囲気なら、途中で襲撃される可能性、高いんじゃね?」
 両隣りの刑事にも言ってみるけどガン無視される。僕は諦め、シートにもたれて目を閉じる。
 案の定、警視庁へ着くまで車列は五回も襲撃される。
 最初は中央自動車道と東京環状線が合流する場所で、高架の上からハンドボール大の鉄球をいくつも落とされ、覆面パトカー一台のフロント部分が大破する。二度目は東京環状線に入るための十字路で、飛び出してきたSRVに斜め横から追突されて、警備車の側面が大きくへこみ、SRVは横転大破する。三度目は中央自動車道に乗ってすぐ、前方に割り込んできた二トントラックの荷台から、釘で作った撒菱まきびしを路面に大量にぶちまけられ、二台の覆面パトカーが事故って走行不能になる。四度目は稲城のインターチェインジで、並走してきた数台のバイクから火炎瓶を投げつけられ、新しく車列に加わっていた四台のパトカーが炎上する。最後は霞が関の警視庁前で、群衆の中からプラスティック爆弾を体に巻きつけた男が飛び出し、警備車に体当りしようとして、警護の警官に脚を撃たれる。取り押さえられたところで起爆するが、爆弾は不発で事なきを得る。
 すべての襲撃はテレビ局のヘリから撮影されており、地上の通行人や野次馬が撮った動画とシャッフルされて、その日の夜にはメディアで流され、襲撃した人たちの情報も次々とリークされる。鉄球を落とした中学生は東京駅の溶解爆発で両親を亡くし、撒菱まきびしをまいた運送会社の社長は新宿の火災で社屋とトラックと従業員の半数を失い、火炎瓶を投げた大学生たちはスタジアムのテロでボランティアをしていた数十人の仲間たちを殺され、自爆しようとした中年の男は都庁の南塔に勤務していた妻と娘を溶かされていて、草薙マリオが精神鑑定を受けて狂人であることが判明したら死刑にならない可能性があるという、ネットの言説を信じ込んだことが共通の動機だったと報道される。
 すぐに彼らに共感する声でSNSやネットニュースのコメント欄が埋め尽くされ、草薙マリオは処刑しろ、無期懲役など許されない、という世論が爆発的に盛り上がる。
 ───なるほどな。
 警視庁の留置所のベッドに寝転んで僕は思う。
 僕をわざわざ陸路で移送させたのは、一連の襲撃を引き起こすためだったのか。国民の望みを元首が汲んで叶える流れにしたいんだな。
 黒桃とガルシアは群集心理を操るのが本当に上手い。あとは公開処刑を通す理屈を官僚に作らせればいいだけだ。
 良いように利用されてるけれど、怒りも悔しさも感じない。まるで凪の海みたいに僕の感情は動かない。
 ただシナリオに沿って運ばれながら、呼吸し、鼓動し、生きている。

 次の日から公安部の捜査官による事情聴取がスタートする。
 反政府組織の構成員をどうやって集めたか、オリンピック・スタジアムのテロと東京同時多発テロをぞれぞれどのように準備したか、数万人の人間を殺傷して何を感じたか───壁に大きなマジックミラーがはめ込まれている取調室で、柔和な顔つきの男性捜査官が、微に入り細に入り繰り出してくる質問に、事実に忠実に僕は答える。
 反政府組織は作っていないし、構成員も集めてない。
 オリンピック・スタジアムのテロも、東京同時多発テロも、黒桃元首が僕に罪を被せる前提で計画し実行したことなので、どのように準備し、何を感じたかは、彼でなければ分からない。
「ああ」
「なるほど」
「そうなんですね」
 男性捜査官が僕の答えを否定せずに受け止めて、そのやり取りを女性捜査官がノートパソコンに記録する。彼女の指がたてるリズミカルなキータッチ音に導かれるように、連日の取り調べはスムーズに進み、用意されていたすべての質問に五日で僕は答え終える。
 六日目からは作成された調書の確認作業に移る。男性捜査官と二人きりになった取調室で、プリントアウトされた調書を彼が読み上げ、内容に誤りがないか僕が聞いて確かめる。
「反政府組織の構成員は、インターネットのダークサイドで募集しました」
「面接には複数のネットカフェを利用しました」
「オリンピックスタジアム・テロの決行日には、スクランブル・ガーデンの屋上からスタジアムの大屋根まで、紅い拳銃を噴射して飛行し、スピーチ中の黒桃元首を狙って、エネルギーラインを発射しました」
「スタジアムにいた二万人を超える大勢の人間を溶かしたり、輻射熱で焼き殺した際に、強烈な快感を覚えました。罪悪感は抱いてません。達成感と誇らしさを感じています」
 僕はぽかんと捜査官を見つめる。
 五日に渡って話したことが一言も書かれていない数十枚の調書を、よどみなく最後まで読み上げてから、平然とした口調で捜査官が訊く。
「───オリンピック・スタジアムのテロに関して、あなたが行った供述は、これで間違いないですか?」
 僕は部屋の隅に設置されてる今は無人のデスクを見る。
 女性捜査官は僕の発言を記録していたのではなく、事前に作られたシナリオを調書風に清書していたのだ。
「慎重に返事して下さいね」
 優しい声で捜査官が言う。
 僕は彼に向き直り、
「すげえな」
 と小さく呟く。
「間違いないですか?」
 もう一度訊かれる。
「はい」
 と僕は返事する。
 さらに、東京同時多発テロに関する僕の『供述』を長々と聞かされ、
「間違いありません」
 と答えて調書に署名押印した僕は、架空のテロリスト『草薙マリオ』と法的に同一人物になる。
 翌日すぐに検察に送られ、公安の調書をそのままなぞった検察官の事情聴取が行われた後、僕の起訴が決定する。
 一週間後に裁判が開かれ、黒桃元首もそこに参加する。
 すべての罪状を認めているため弁護団に仕事らしい仕事はない。最終弁論までするすると進み、公判最後のプログラム───黒桃の特別論告となる。
 この歴史的なスピーチを聴きにきた聴衆で傍聴席はびっしり埋まってる。裁判長に名前を呼ばれ、検事の隣りに座っていた黒桃が立ち上がり、法廷全体を見渡してからおもむろに口を開く。
「草薙マリオ容疑者は、メディアを入れた公の場で処刑される必要がある───これは新生日本国の先行きを、元首として熟考し抜いた上で、導き出した結論である。何故そのような野蛮な儀式が、容疑者の人権を停止してまで行わなければならないか、率直かつ簡潔に述べることで私の論告とさせていただく」
 傍聴席から拍手が沸き起こる。
 雰囲気が落ち着くのを待ってから、毅然として黒桃が語り出す。
「大震災と原発事故と放射能汚染をくぐり抜け、激しいストレスに晒されてきた満身創痍の日本国民の心は、草薙容疑者が引き起こしたテロによって致命的なダメージを受けた。新生日本の象徴だった甲斐官房長官を残虐非道なやり方で殺害されたトラウマが殊に大きい。あとひとつ災害級の事件が起きれば、国が傾き民族が滅びる流れを、我々は止められないだろう。取り返しがつかなくなる前に、社会全体に満ちている絶望的な感情を昇華し、すべての日本人の心を清める国家規模のみそぎが必要だ。そして草薙マリオの公開処刑こそが禊になると私は思う。今の日本人に必要なのは原始的な生命力であり、通常なら戦争を起こすことでしか手に入らない巨大な力を、たった一人の犯罪者の処罰に特例を設けて得られるのなら、積極的に人権を停止させるべきだと考える───私が独裁者であるならば、ただちにこの場でそうしろと司法に命令するだろう!」
 傍聴席の聴衆はもちろん、検事や弁護士や裁判官までが、黒桃の語りに魂を揺すられ、我を忘れて引き込まれる。
 おお、
 と僕も目をみはる。
 これは論告なんかじゃない、
 古代の王が神殿の祭壇でぶちかます演説だ。
 生贄が引き裂かれて死ぬところを、みんなで見物して元気になって、新しい国をもり立てよう───そう法治国家の元首が法廷で呼びかけ、国民たちがうっとりと聞き惚れてる図がエグすぎる。
「国が、社会が、民族が滅びて、犯罪者の人権が生き残るなど、ナンセンスもはなはだしい。救うべきもの、生かすべきものを、我々は決して間違えてはならない」
 重々しい口調でそう語り終え、黒桃が初めて僕を見る。
 見返しながら僕はため息をつく。
 言うことがない。
 完璧だ。
 爆発的な拍手喝采とともに草薙マリオの公判は終わり、後にも先にも一度きりという厳格な条件がつけられた上で、僕の人権は停止され、公開処刑の判決が下る。
 僕は高裁に上告しない。
 刑の執行は三週間後の四月一日と決められる。

 オリンピックスタジアム跡地を公開処刑場として活用することが臨時国会で決議され、刑場作りが急ピッチで進む。
 その完成を警視庁の拘置所に入れられて僕は待つ。
 部屋は単独室で、鉄格子のはまった窓があり、布団とテーブルとテレビが置かれてる。テレビは視ない。興味がない。絵を描きたいと看守に頼むとスケッチブックとクレパスを持ってきてくれる。美猟やハルや武市先生の肖像画を記憶を頼りに僕は描く。
 そういえば『平井耀ヒライ・アカル』ってどういう扱いになってんだろう、草薙マリオの逮捕と同時に行方不明になったそっくりさんのことを、黒桃はどう誤魔化すのかな、別の人間を整形して替え玉に仕立て上げるのか、ホワイトハウスの惨事に居合わせて安否不明って話にするか───いずれにしてもシナリオの分岐のひとつに取り込まれるかたちで、後腐れなく存在を消化されてしまうんだろな。
 そんなことをぼんやり考えながら僕はモニュメントバレーの荒野を描く。夕陽に染まった卓上台地メサの連なりを、雪に覆われたナバホの聖地を、星に埋め尽くされた夜空を描く。仕上がるとスケッチブックから切り離して壁に貼る。
 一週間がたち、壁が絵で一杯になったタイミングで、啓司ライトナーが会いに来る。面会室での対面ではなく単独室に直接やってくる。
 前触れもなくドアが開いて、
「十五分です」
 と看守の声がし、ドアが閉まって鍵がかかると、仕立ての良いスーツを身にまとった啓司が魔法のように立っている。
「何してる?どうやって入って来た?」
 驚き呆れて僕は訊く。
 壁一面のクレパス画に一瞥をくれてから、座ったままの僕を見下ろし、啓司が穏やかな声で言う。
「今日は貴様を殴りにきた」
 は?
「大統領から黒桃元首にホットラインを入れてもらった。最新のステルス戦闘機を五機買える金額で、この十五分を買ったんだ」
「・・・・」
 さらに驚き呆れる。
 F35の最新鋭機って一機で百億超えるはず。
 そんな大金、一官僚の啓司に用意できるはずがない。
「ジャップにクサナギを処刑されることがどうしても許せない、私の代わりに叩きのめして心臓に銃弾をブチ込んでこい───父親にそう指図されてね。だが、ここへ来たのは私の意志だ」
 僕は息を呑む。
 そして腑に落ちる。
 鰐淵シニア・ライトナー。
 アメリカのトップファンドの経営者であり、現大統領のスポンサーで、息子であり啓司の弟でもある鰐淵礼司ライトナーを撃ち殺した僕を激しく憎み、八年半前、日本政府と警視庁と警部補だった黒桃を動かして、僕を抹殺させようとした、世界的な大資産家。
 あの老人なら、このくらいのことは平気でやる。
 きっと、僕を殺し切れなかったことで燻っていた復讐心が、ペンタゴンとホワイトハウスが壊滅した真相を大統領筋から知らされて、爆発的に再燃したんだろう。
 そしてこんな茶番が通ったのは、シナリオの結末に影響がないことを黒桃とガルシアが知ってるからだ。あいつらは監視カメラを通してどっかでこれを見てるんだろう───そう思って僕は苦笑する。
「処刑当日の銃殺隊にも無理を通して加えてもらった。最前列の真ん中だ。誰よりも速く心臓を撃ち抜き、貴様の命を終わらせてやる」
 ジャケットのボタンを外しながら愉しそうに啓司が言う。
 その姿を見ながら僕は激しいデジャブに襲われる。
 八年半前のクラブ『飛頭蛮』、VIPルームでの殴り合い───圧倒的な暴力と気迫で挑んできた礼司ライトナー。生き物として、牡として、存在を賭けてぶつかり合い、最後の最後に至近距離で互いの拳銃で撃ち合った。
 僕が勝って、奴が死んだ。
 溶かして殺して雄叫びを上げた。
「・・・良かったな。やっと仇を討てて」
 煽りでも捨て鉢な気持ちでもなく、心からそう思って僕は言う。
 優雅に微笑しながら啓司が返す。
「ずっと貴様が嫌いだった。その顔つきにあらわれた魂のあり方が、腹の底から気に食わなかった」
 更なるデジャブに襲われて、ぶるっ、と僕は身を震わす。
 高二の春、夕暮れの美術室で、勇気を振り絞って告白した後、まったく同じことを美猟に言われ、さらに激しく惹かれたんだ───。
 啓司が指でネクタイを外す。
「弟は一族の鬼っ子だった。だが、一族の毒を一人で背負って生きててくれた男でもあった。あいつが暴れていてくれたから、私はアメリカの官僚社会へまっすぐ入って行くことができた」
 穏やかな声で語りながら、ジャケットも脱いで丁寧にたたみ、足元のテーブルの上に置く。
「殺されたと知らされた時、信じられなかった。父親が死に、私が死に、一族の全員が滅びたとしても、あいつだけは最後まで笑って生きてると思ってたからな」
 シャツの襟を大きく開いて、両腕の袖をまくり上げる。
「半壊した『飛頭蛮』へ足を運び、遺体の一部を確認したが、それでもリアリティを持つことができず、何の感情も湧かなかった。だが、『ファクト』司令官の任につき、貴様の写真を目にした瞬間、怒りと悲しみと憎しみが吹き出し、体の中で渦を巻いた。弟の仇であることを超えて、私の敵であることが分かった」
 腕時計を外してテーブルに置き、まっすぐに立って僕を見る。
 僕はゆっくりと立ち上がる。
「都庁から奪回されてきた貴様と顔を合わせたときは、殺意を抑えるのに苦労したよ───礼司よりも喧嘩っ早かったガキの頃を、貴様は久々に思い出させてくれた」
 はにかむように啓司が笑い、その顔にふわりと礼司が重なる。
 空気がどんどん緊迫する。
「あんまり喋ってるとタイムオーバーになるぞ」
 心臓を高鳴らせて僕は言う。
「大丈夫。まだ十分はある」
 朗らかに啓司が答え、こちらへ向かって歩み寄る。
 三畳しかない単独室の真ん中で、僕と啓司は向かい合う。
「・・・・」
「・・・・」
 五秒。六秒───沈黙が続く。
 ぎらり、
 と啓司の双眸が黒曜石のように光を放ち、体が大きく膨れ上がる。
 ぶわん、
 と視野が大きくブレる。背後の壁へ飛ばされる。
 窓枠の鉄格子でバウンドする。また衝撃がくる。視野が流れる。
 右の頬と左の腹と左の頬を殴られた。
 パンチがまったく見えなかった。
 引き起こされる。右の拳が顔を狙って飛んでくる。
 ガードしながらスウェットの胸元を掴んでる左手を外そうとする。
 できない。強い指。太い腕。
 そしてパンチがとてつもなく重い。
 テクニック云々でとかでなく、こいつ、ナチュラルに喧嘩が強い。
 ひゅっ、
 と僕は息を吐き、旧『ファクト』で叩き込まれた格闘術のモードに入る。
 両足を跳ね上げ、左腕に巻きつけ、啓司の体を床に倒す。
 馬乗りになってマウントを取りにいく。
 がつん、と下から顎を殴られ、フックでみぞおちを連打される。
 たまらす離れて後ずさる。
 啓司が起き上がり左ストレートを打ってくる。
 くぐって、ドアの方へ走り、間合いを取る。
 振り向いて煽るように礼司が言う。
「まだ一発ももらってないぞ」
 その不敵さに思わず僕は見惚れる。
 すげえ。
 こいつマジで強い。
 あの時の礼司より上かもしれない。
 鼻に詰まった血を吹き飛ばしてから、ピーカブースタイルに構えを変える。啓司がゆっくり体をゆする。僕もすり足で前へ出る。
 す、と啓司の体が沈む。
 飛び込んでくる。拳が来る。
 避ける。拳を出す。頬に入る、
 アッパーを打つ。顎に入る。フックを打つ。腹に入る、
 ごんがつん、と頬に衝撃がくる。拳と肘打ちのコンボをくらう、
 頭が痺れる。踏みしめてこらえる。
 腰を回してフックを打つ。
 弾かれる。三連打をもらう。腰→脚→床へと衝撃を逃がす。
 ストレートを打つ。右目に決まる。あ、と啓司が声を漏らす、
 顔を殴る。右右、左。
 鼻血が飛び散る。啓司が下がる、
 押し込んでラッシュ───と思った瞬間。
 がち・ごわぁん、と頬骨が鳴る。
 意識が飛びかけ後ろに下がる、
 目の前に拳。視野が流れる、
 振動。衝撃。倒れている。
 跳ね上がって起きる。蹴りがくる、
 退いて避ける。下から殺気。反る。爪先が顎を掠める。
 拳が来る。両腕でガード。押されて下がる。ドアにぶつかる。
 逃げ場がなくなる、
 がん、が、ご、ごごん。
 連打の嵐。スイングして避ける、
 がし、と頭をつかまれて、ごぎん、と頬を殴られる。
 すとん、と腰から落ちてしまう、
 顔を振る。強く振る。目の焦点が合う。跳ね上がる。
 下から顎をアッパーで打つ。
 啓司が反る。腹を殴る。顔が出てくる。顎を殴る。
 がくん、と啓司が膝から崩れる。
 気絶する。すぐ目覚める。
 ぱんと頬を、ばんと床を、叩いて起きる。
 距離を取る。
 また部屋の真ん中で向き合う。
 血塗れになった啓司の顔で、火を吹くように燃えてる瞳が、八年半前に叫んだ言葉を、鮮やかに僕に思い出させる。

「世界にいっぱい僕の跡を残すんだ───邪魔するなぁ!」

 過去の自分に感電して震える。
 誰にも、自分を殺させない、と心に決めたあの時の自分。
 とても眩しく懐かしい。
 今はガルシアの人形で、黒桃の道具で、殺戮を連鎖する『呪いのバトン』だ。洗脳のコマンドに縛りつけられ、世界を再構築することもできず、ただシナリオに定められた役割を演じ切るために生かされてるだけの。
 ───なのに。
 呼吸を激しく弾ませながら、ゆっくりと僕はそのことに気づく。
 僕は絶望していない。
 生きる気力が枯れてない。
 ドキドキワクワク楽しみながら啓司と殴り合えている。
 心の底の底にある、この正体不明の余裕は、何?
 二つの荒い呼吸だけが単独室に響いてる。
 次で決まる。
 それが分かる。
 啓司がすっと目を細める。
 自分の落とした血を踏みながら、僕はじりじり間合いを詰める。
 二人が同時に呼吸を止める。
 部屋の中から音が消える。
 空気が固まる。
 時が止まる。

 がちゃ、

 とドアのノブが鳴る───十五分が過ぎたのだ。
 弾かれるように僕は飛び出し、渾身の力で右ストレートを打ち込む。

「これでマリオは大丈夫。何があっても切り抜けられる───誰にも、ガルシアにだって、命を奪うことはできないから」
 ダウンジャケットを着た美猟が、紅い拳銃を手にして言う。
「何が起きるか分からないから、何が起きてもいいようにしておきたい」
 不敵な笑顔で笑ってる。
 冬のアリゾナ、鏡のような湖。
 シリンダーに寄せられる桜色の唇。
 つぶやかれる言葉、白い吐息。
「誰の過去も、どんな呪いも、マリオがなぞることのないように」
 ああ、
 そうだ。
 あのときだ。
 横田基地へと向かう輸送機の中で思い出した美猟の言葉───あれは、僕を守るための洗脳のコマンドを打ち込まれた時に言われたんだ。
 その内容を僕は訊かず、コマンドを忘れるコマンドを美猟も自分に打ち込んで、黒桃やガルシアに気づかれないよう完全封印したんだった。
 脳に、体に、魂に、彼女の言葉が刻まれて、自分の未来が担保された、あの時の感触が蘇る。
 なるほどな、
 そういうことか。
 心の底の底にある、余裕の正体は、これだったんだ。
 美猟のコマンドに守られてるのを僕の命は知っていて、コマンドの発動と同時に活路が拓けると分かってて、だから恐れも怯みもしないで、その時が来るのを待っているんだ───。

 ぼんやりと目の焦点が結ばれる。
 床に寝かされ、看守に体を揺すられてる啓司が見えてくる。紫色に顎を腫らし、白目を剥いて失神してる。
 はは。
 勝った。
 いや相打ちか。
 起き上がろうとして僕は転がる。
 ぐわあぁぁん、と部屋全体がスローモーションで回転してる。
 脳震盪のうしんとうだ。こりゃ酷い。気分が悪い。吐きそうだ。
「・・草彅・・・マリオ」
 啓司の声が聞こえる。意識を取り戻したらしい。僕は朦朧としながらそっちを見る。
「クミコ・タケチは・・・生きてるぞ」
「・・・」
 やっぱりな。
 僕は驚かない。横田基地に着いて啓司と話した時に、その確信は得ていたから───でも裏が取れてホッとする。
「貴様が・・戦術核を落とす前に・・・二百キロ離れた大病院に運ばれて・・・手術を受けた・・・成功したが、意識が戻らん・・・植物状態になる、可能性が高い・・・」
「戻、る」
 と僕は言う。
「武市、先生は、戻ってくる・・・生きてる、ことが・・娯楽な人だから」
 啓司ライトナーが体を起こし、しばらく黙って僕を見つめる。
「何を、隠してる?」
「・・・?」
「貴様の心は、折れてない・・・土壇場で、何かする気だな?」
 おお。
 やっぱ鋭いな。
「一体、何を、するつもりだ?」
 さあ。
 僕は苦笑する。
 それは美猟のコマンドが発動してみないと分からない。
 でも、したいことなら決まってる。
 ぷ、と口の中に溜まった血を吐いてから、僕は言う。
「花を・・・咲かせたい」
「・・・・」
 何だそりゃ、
 殴られすぎて頭いかれたか?
 って顔をしている啓司ライトナーが部屋と一緒に回るのを見ながら、

 『暴力の果てに咲く花』を、まだ見れるかもしれない、

 と僕は思う。


<続く>

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