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ルビー・ザ・キッド Bullet:20


 平井耀ヒライ・アカルとして生きることになった僕は、ユタ州のゲストハウスで本格的に制作を始める。グランドチェロキーに画材を積んでモニュメントバレーへスケッチに出かける。ナバホ族の聖地なので立入禁止の場所が多いけど、ペンタゴンが話をつけているので僕は何も気にしなくていい。大地と空に挟まれて風の音しか聞こえない場所で、目と手をひたすら動かし続け、夕方にアトリエへ戻ってスケッチをキャンバスに写していく。複数の作品を並行して描き、一ヶ月で十三枚の風景画を仕上げる。
 美猟が完成した絵を見たいというので、瞬間移動で松濤しょうとうの家から連れてくる。リビングのカーテンウォールに立てかけて並べた作品を古いものからじっくり美猟が見ていく。八枚目あたりで目つきが変わり、十枚目から喋らなくなり、十二枚目と十三枚目の前で動かなくなる。その背中を見つめながら僕は鼓動を高鳴らせる。その二枚(「夕日に輝くメサの絵」と「岩場に転がる枯れ木の絵」)は、荒野にイーゼルを突き立ててノーデッサンで直描きしたもので、迫ってくる力が異様に強く、絵というよりもその場所につながる窓を作った体感がある。
「すごく良い」
 と長い沈黙のあとに美猟がつぶやく。
「土地のエネルギーが吹き出している───絵っていうより、窓みたい」
 ああ、同じ感想だ。
「こういう絵を、もっと見たい」
 興奮で瞳を輝かせ、頬を上気させて美猟が言う。
「ああ、描くよ。どんどん描く!」
 翌朝からまた荒野へ出る。
 「ここ」「これ」と感じたところにイーゼルを立てて直描きするため、並行して作品を作れなくなるけど、一気呵成に仕上げてしまうので制作スピードはほとんど落ちない。
 十月になって完成作が三十枚に達したところで、放置していたHPに作品をアップし、オンライン・ギャラリーにも出品する。寝て起きると一晩で十一枚も売れててびっくりする。僕が新作を描き始めたことを日本のテレビやネットニュースが取り上げ、SNSのトピックになって、取材のメールがたくさん来る。
 次の日、現役の画商でDCIS国防犯罪捜査局のエージェントだという男が訪ねてきて、国の命令で君をプロモートする、今後は新作をネットで売らずに自分に渡してくれと言う。冗談みたいな話だけれど、IDもバッジも本物なので、リビングに上げて話を聴く。
 まずは在野の天才として評論家に作品を褒めさせてから、いくつかのコンクールに出品し、その中の一つで賞を取らせて、ロサンゼルスの画廊で個展を開く、一年でそこまで持っていき、日本の対テロ戦争が終わるまで制作活動をサポートする───そうそのエージェントは説明し、承諾の書類にサインさせ、完成した絵を十枚持ってさっさとロスへ帰ってしまう。
 三日後、ロサンゼルスタイムスの美術コラムに僕のことが取り上げられ、複数の美術雑誌や批評サイトに僕の作品の記事が書かれる。日本でもそれが報道されて、オンライン・ギャラリーに売りに出してた三十枚の絵が完売する。ペンタゴンが操作していることだし、洗脳のコマンドも効いているので、喜びも驚きも感じない。ただ、少なくともこの先五年間は、絵を描いて生きられることが分かって嬉しい。
 オフロードバイクのBMWエンヂューロの荷台を改造し、二十号のキャンバスと簡易イーゼルと画箱一式を積めるようにして、断崖の先端や凹凸の激しい岩場へ行って直描きする。ときどきナバホの人たちが僕を見つけてやってきて、見物したり話しかけたりするので、彼らの肖像画も描いてしまう。頭を空っぽにして目と手を動かし、一気に描き上げた彼らの顔は、岩のようだったり蛇のようだったり鳥や蜥蜴とかげのようだったりする。欲しがる人にはプレゼントして、残った肖像画と風景画の写真をまとめて画商に送ってやると、実物が見たいと言うので全部ロスへ送ってやる。数日後に画商からビデオ通話で、同じモチーフでコンクールに出品する絵を何点か描いてみてくれと言われ、イメージが浮かんだのですぐ始める。百号の作品を徹夜で仕上げ、爆睡して起きてタコスを食べて、次のイメージに取りかかる。百号を二枚と二百号を一枚、一週間で完成させて、丸一日眠って起きて食べて、さらに半日眠ってから、三枚の絵を並べて眺める。
 真っ赤な岩の割れ目から顔を出して咲く紫の花、
 真っ青な空と赤い大地とその間に立つ黒い馬とその馬の首を抱く女、
 オレンジに輝くメサの上で青い炎を翼のように背中から吹き出しなびかせながら沈む太陽を見つめている褐色の肌の若いの男(右手には紅い拳銃を持っている)───。
 三枚の絵は、ルビーとブランカの物語をモチーフにした組絵になってて、美猟が美術部で描いた作品にインスパイアされており、これまで自分が描いてきたどの絵にもまったく似ておらず、荒野で直描きしていないのに「窓」の感覚がしっかりある。
 少しだけ細部を手直ししてから三枚の写真を画商に送ると、その中の一枚をコンクールに出す、未乾燥で構わないから送ってくれ、と言われたのですぐに発送する。美術品専門の運送業者に梱包してもらって送り出す。それですべての作品が手元を離れてしまうけど、果てしなく描けるので気にならない。次の日からまたオフロードバイクに画材を積んで荒野へ出かけ、木や石や岩やメサやビュートやナバホの人たちを描きまくる。
 十一月の始めに瞬間移動で松濤に帰って美猟に会う。バスルームへ行って鏡を見ると、R-GUNシステムから助け出された頃の自分が映っててギョッとする。すっかり日焼けし、髪の色が抜け、瞳の色が鮮やかで白目が青い───ナバホの若者にしか見えない。この三ヶ月で自分の外見が様変わりしていたことに唐突に気がつき、僕はその場で動けなくなる。
「先月の半ばからそんな感じだったよ。ユタの荒野で毎日毎日絵を描いてるんだから当然だと思うけど───自分で分かってなかったの?」
 呆れたように美猟に言われて、
「うん」
 と頷き苦笑する。絵のことで頭がいっぱいになってて、自分の顔なんて見てなかったのだ。
 ゲストハウスに戻って自画像を描き出す。あまりの面白さにはまってしまう。岩のような枯れ木のような地面のような鳥のような蜥蜴のような自分の顔を、飽きずに延々と描いてるうちに、十二月になって雪が降り出し、外での直描きが難しくなる。
 画商からビデオ通話があって、来年の始めから春にかけて結果が発表される三つのコンクールに三枚の絵をそれぞれ出品した、そのうちのひとつで賞を取らせる、個展に向けた新作を今から描けるだけ描いてくれ、と言われる。すべての自画像の写真を送り、実物を全部配送してから、資料用にモニュメントバレーの雪景色を撮影に行く。デジカメのファインダー越しに冬の荒野を見ているうちに、生き物の姿が減った分だけ、魂は活発になってるかもと思い、メサの壁面を少し登って、紅い拳銃のバレルを突き刺し、魂の世界にシフトするよう意識しながら引き金を引く。

 ぶうん、

 と強い振動が体を揺さぶり、ルビーの魂にコンタクトした時のように、周囲の荒野が淡く光って水のように輪郭がゆらぐ。
 魂の世界に入れたと分かって、僕はぐるりと周りを見回す。
 たくさんの鳥や牛や馬や蛇や蜥蜴や人間の魂が、岩肌や木に張りついていたり、群れをなして空を飛んだり、地を這ったりしているのが見える。やっぱりそうだ、と僕は思い、貪るようにそれらを記憶する。ワタリガラスやカケスやヒメコンドルの魂が混ざり合って飛んでいたり、頭や角がいくつも生えたバイソンの魂がこっちを見つめていたり、足だけの馬が何十頭も雪の荒野を駆けていたり、百メートルはありそうなガラガラヘビの魂がメサの岩壁の内側をぬめぬめと移動していたり、サバクツノトカゲの魂が岩に擬態して転がってたり、ナバホの人たちの魂が、ミトンやメリックやスリーシスターズといったビュート孤立丘のてっぺんに陣取って、歌ったり踊ったり飛び跳ねたりして遊んでいるのが面白すぎる。しっかり覚えて物理現実に戻ってチェロキーの中でスケッチする。二つの世界を出たり入ったりして描きためた数十枚のスケッチを、アトリエに持ち帰って九枚の下書きにコラージュし、クリスマスまでに油絵として全部完成させてしまう。
 大晦日に瞬間移動で日本へ戻り、脳内世界のホテルのスウィートで美猟と二人で三日ほどすごし、物理現実に戻って元旦にゲストハウスへ帰ってくると、年末に写真を送っておいた荒野の魂シリーズについて、画商のからの熱烈なメッセージがスマホとPCに届いてる。こういうテイストの絵が大好きだ、たくさん描いて見せてくれ、と言われてすごく嬉しくなって、一月の終わりまでに十五枚を描く。十六枚目は二百号の大きなものにしたいと思い、下絵の構図を考えていると、三つのコンクールに出品した三枚の絵が、三枚とも賞を取ったと連絡が入る。 DCIS国防犯罪捜査局が審査結果を操作したのは、紅い拳銃を持った青年を描いた絵を出品したコンクールだけだ、他の二枚に関しては掛け値なしに評価されたんだ、トップの賞ではないけど、二ケ所で同じ画家が同時受賞というのは、ちょっとありえないことなんだよ、とビデオ通話で画商がエキサイトし、個展のプロモーションの規模をもっと広げて派手にするから、と仕事を度外視した感じで意気込む。さすがに僕も舞い上がって、美猟にメールで知らせると、速攻で返事が返ってくる。

 おめでとう、ロスのアートシーンで職業画家としてデビューだね。これからもマリオの絵はもっとすごくなるし、ペンタゴンのバックアップが切れた後も、画家としてずっと遠くまで行く。自分で自分を燃やしながら、いけるところまでいきましょう。

 すごいのは美猟だ、
 と嬉しさと愛おしさに満たされながら僕は思う。
 ペンタゴンのコントロールを超えて、さらに大きく、強くなり、遠くまで行くのは彼女の方だ───テロの重要参考人として拘束されたあの夏から、半年もたたずに新内閣の官房長官になったんだから。

 八月の終わりに黒桃との協議離婚が成立し、社会的にも政治的にも独り身になることができた美猟は、その翌日に開かれたオリンピックスタジアム・テロの慰霊式に出席し、会場の東京スタジアムを千人の武装警官に、演壇の周囲を五十人のSPに警護され、成層圏からアメリカの軍事衛星に見守られながら、今回のテロでダメージを受けたすべての人たちをサポートするため、医療費の免除と給付金の制度を三週間で成立させて実行すると約束した。
 さらに次の日、朝のワイドショーで黒桃との離婚についてインタビューを受けた美猟は、
「人生のパートナーとしての関係は終わりましたが、これからも元首の政策を盛りたて、力を尽くしていく所存です───そして可能であれば、遠くない将来、新政府の閣僚として働きたいです」
 と答えて五十パーセントに迫る視聴率を叩き出し、国政へ乗り出す意志のあることを国民と政財界にアピールした。その発言を受けて、『大臣をスキップして官房長官になってほしいと』いう書き込みがSNSに大量に投下され( DCIS国防犯罪捜査局や『ファクト』のエージェントの仕事だろう)、甲斐官房長官待望論をマスメディアが派手に取り上げた。
「政府の見解を毎日伝える行政の顔として、また大規模テロや災害時に代理を任せられる人物として、現都知事ほどふさわしい人はいないと私も常々考えている」
 と国家元首である黒桃が、テロに関する記者会見の終わりにさらりとコメントしたことで、美猟が今期で都知事職を離れ、国会議員となって組閣入りする暗黙の流れが確定した。官房長官は国家元首が指名することで決まるため、美猟は選挙に立候補して当選するだけでいい。そして、

『甲斐美猟を、国のシンボルとして、愛すること』

という洗脳のコマンドを紅い拳銃で打ち込まれている日本国民は、必ず美猟を衆議院議員に当選させるに決まっているのだ。
 完全なヤラセであるにもかかわらず、この話に強烈なリアリティがあるのは、それだけの器と政治力を美猟が持っているからだ。テロの被害者とその家族に対する医療費の免除と給付金の制度を、本当に三週間で成立させて稼働させてみせた美猟のことを、国内外のメディアがベタ褒めした。
 十月半ばに黒桃が、対テロ対策に特化した新しい内閣を作るために衆議院を解散し、月末に総選挙を行うことを宣言した。直後に美猟が国会議員になるために都知事を辞任すると発表し、衆議院選挙と都知事選挙が前後して行われることになった。辞職の手続きと選挙運動を同時に進めていくことで、都庁の職員と選挙スタッフに殺人的なスケジュールが発生し、体調を崩して倒れる人間が両サイドで続出したけれど、美猟本人は涼しい顔で次々にノルマをこなしてみせた。もちろん僕が毎晩のように瞬間移動で松濤へ飛び、脳内世界へ彼女を移し、体感にして八時間から九時間たっぷり眠らせてたんだけど、そんなこととは知るよしもない黒桃以外のすべての人々は、何日も徹夜を続けながら、健康的で活力に満ち、頭の回転も落ちない美猟を超人のように思っただろう。
 東京七区での十一日間の選挙運動を戦い抜いた美猟は、九十九パーセントの得票率で衆議院議員に当選し、十日後に特別国会に招集されて、内閣官房長官に任命された。まだ二十代の若さで、女性でもあるという、史上初をコンボを実現した彼女に日本中の人々が大興奮した。最初の定例記者会見でそのことに対する感想を訊かれて、
「貴重な時間を、くだらない質問で、無駄に使うのはやめてください」
 と美猟が切って捨てるのを、ユタ州のゲストハウスのテレビで観ながら腹を抱えて僕は笑った。観ていたすべての人たちが同じように元気になったのだろう、美猟の定例記者会見の録画が大手動画サイトで配信されるようになり、チャンネル登録数が二週間で八千万件を超えてしまい、それを受けてすべて地上波局が深夜枠で会見の録画を流し出し、それがゴールデンタイムの視聴率をいとも軽々とぶっちぎった。
 官房長官が国民的なアイドルになってしまったのだ。
 それが十一月の半ばのことで、それまでに二度、『草彅マリオの幽霊』(=ペンタゴンよって構築された僕の3DCGモデリング)が大規模テロを予告する動画がネットに投下され拡散された。このテロは二度とも、警視庁の公安特捜部と警察庁の特殊部隊のタッグによって防がれた、と公式には発表されている。もちろんそんなテロは仕掛けられてないし、反政府組織の地下活動もない。すべてペンタゴンとその下部組織『ファクト』が行った工作であり、本当に爆発物を使うパフォーマンスは、来年の春まで行わないスケジュールになっていた。被害者を出さずに公共の施設を爆破するそのイベントをきっかけに、警察組織の武装を強化し、SAT警察庁特殊部隊よりはるかに規模の大きな対テロ特殊攻撃部隊を、警察庁に新設する法案を通すのだと、年末に日本へ帰省したとき美猟がそっと教えてくれた。
「それが架空の対テロ戦争の本格的な始まりになるけど、洗脳のコマンドをまた国民に打ち込むミッションがあるのはずっと先。三年半後に予定されてるもっと大きなイベントの前後になるって、啓司ライトナーが言っていた───当分の間、マリオは絵だけに打ち込むことができるから」
「わかった」
 脳内世界のスウィートルームで、美猟と抱き合いキスしながら、頭の隅でまた再生を始めた『悪夢』を僕は振り払った。
 ゲストハウスで本格的に制作を始めてから四ヶ月の間、何度もしつこく蘇ってきては僕をおびやかす不吉なイメージ───。

『その蕾を、落とすのは、お前だ』

 と耳元でささやくガルシアの声と、
 ぽとりと落ちる花の蕾と、
 転がってきてつま先にぶつかる───美猟の生首のイメージを。

 兆し、のようなものを感じたのは、絵画コンクールに受賞した知らせがロスから届く前だった。ペンタゴンが作って拡散した『草彅マリオのテロ予告』の動画をパソコンで観ていて違和感を感じた。AIによってプログラムされたデジタルモデルの語り口や動作に、血が通っているような印象を断続的に受けたのだ。
 今、ちょっと───生きてるように見えた。
 ぞくりと背筋に悪寒を感じ、もう一度動画を観直してみたけど、そういう感じはもうしなかった。
「・・・プログラムの技術が上がったのかな?」
 『草彅マリオ』の3DCGモデルは、僕の記録映像を元に、国防総省の最新技術を使って加工したもので、普通に観てれば作り物には見えない。そうだと知ってる人間が探そうと意識して見ることで、微妙な嘘くささが分かるかどうかだ。その嘘くささが途切れてなくなる瞬間が、確かに何度かあったのだ。まるで精巧に作られた人形の中に、魂が入り込みかけてるみたいな、気持ちの悪い印象だった。
 一月の末にもう一度、テロの予告が動画サイトに投稿された。近々日本の大都市で、前回と同規模の大きなテロを同時多発で行うこと、テロ対策の中心にいる政治家を拉致して見せしめに公開処刑すると『草彅マリオ』が予告した。
 リビングのテレビでそれを観ながら、僕は全身に鳥肌を立てた。
 『草彅マリオ』が生きていて、意志を持って喋ってるように見える部分が、前よりさらに増えていたのだ───。
 僕は暗号化されて番号を使って啓司ライトナーに電話をし、今回の動画の制作中に変わったことがなかったか訊いてみた。
「プログラムにバグが出て、セリフの一部にアドリブのような変化が加わってしまったらしい。よりに人間らしく見えるので、修正せずに使ったそうだ。ミッションの展開に影響はない。よく分かったな───いや」
 口調を改めて啓司が言った。
「何か問題を感じたか?」
 鋭いな、と思いながら適当にごまかして電話を切った。水面下で凶々しいことが進行している体感はあるけど、それが一体何なのか、説明することができなかった。その後もしばらく動画の異様さは僕の脳裏に貼りついて残り、しつこくアラームを鳴らし続けた。

 二月になり、三つの絵画コンクールの結果がすべて発表されて、それぞれの入賞式と個展に出るため、しばらくロサンゼルスに行くことをメッセージして美猟に知らせると、すぐに電話がかかってきて、その前に一度逢いたいと言われる。
「脳内世界のホテルじゃなくて、現実で」
「いいよ。どこがいい?」
 ちょっと間をおいて美猟が答える。
「湖のほとり」
「え?」
「百三十年前、ルビーがブランカを殺そうとして殺せなかった湖───あの場所が見たいの。連れてってくれる?」
「・・・わかった」
 あの鏡のような湖の場所がどこなのか調べて見つけたと、去年の秋に話したときに、美猟が強く反応したのを思い出しながら僕は頷く。
 松濤の家で二十二時に待ち合わせをし、官邸から帰宅したスーツ姿の美猟を防寒着に着替えさせてから、ユタのゲストハウスへ瞬間移動し、乗り込んだグランドチェロキーの車体に紅い拳銃を刺して、さらにジャンプする。
 アリゾナ州のツーソンから五十キロほど内陸に入ったところに、ルビーの記憶で見たままの状態でその湖は残ってる。現地は朝の六時前で、雪化粧した山脈とその向こうで朝になりかけてる空を、逆さまに湖に映してる。
 美猟が車から降りて歩き、湖面を見晴らせる場所に立つ。僕のその後に続く。記憶の中で黄金色に輝いていた草原は、今は冬枯れて霜が降りてる。
「夏だったら、あの時の二人みたいにできたのにね」
 隣りに並んだ僕に向かって、いたずらっぽく美猟がささやく。
 百三十年前にルビーとブランカがここでしたことを思い出しながら、僕は美猟の横顔を見、実業家でもなければ政治家でもない、高校生の少女だった頃のような雰囲気を感じてドキッとする。
 山脈の上から顔を出した太陽が、美猟の体を金色に照らす。
「どうしてここに来たかったの?」
 目を細めながら僕は訊く。
「流れが変わった場所だから」
「流れ?」
「ここでブランカを殺せていたら、ルビーは処刑されなかったし、紅い拳銃が世界的な殺戮を加速させることもなかった───ひとつの流れを止めることで、もっと大きな流れが作り出された、始まりの場所に立ってみたかったの」
 ああ───確かにそうだな、と僕は思う。
 百三十年前にこの湖でルビーがブランカを撃っていたら、ルビーはブランカと生きたいとは願わず、彼の魂は世界を覆わず、紅い拳銃が呪われた殺戮兵器になることはなく、そして僕と美猟は一緒にいない───美術部の先輩と後輩のままで告白して振られて終わってた。
「連鎖の最先端にいるマリオは、ルビーの行動をなぞってる。罠を食い破っていくたびに、ガルシアの亡霊の望む方へと少しづつ誘導されている。でもルビーとマリオは同じじゃない。マリオには打ち込める生きがいがある。夢中になって絵を描くことで『三歳の怪物』を抑え込めてる。だからルビーみたいに生贄にはされないし、ガルシアのコントロールを振り切ることが必ずできる、とわたしは思う」
 きらきら輝く漆黒の瞳で見つめながら美猟が言う。
 僕は胸がいっぱいになる。
 視線を外さず美猟が続ける。
「ガルシアがまた動き出す兆し───マリオも感じたでしょう?」
 兆し。
 僕はハッとする。
「『草彅マリオ』のテロ予告動画か!」
 美猟が頷く。
「あれはプログラムのバグなんかじゃない。すごく不吉で禍々しいことが進行しているサインだよ」
 美猟も同じことを考えてたんだ、とぞくぞくしながら僕は思い、同時にまたあの不気味な夢が頭の隅で再生される───蕾のままで落ちる花、転がってくる美猟の首、僕がそれをやるのだと耳元でささやく不吉な声。
「マリオにはあの映像、どう見えた?」
「・・・人形の中に、霊魂が、入り込もうとしてるみたいだった」
「うん。3DCGモデルのデータに外部から何かが干渉してた。ハッキングプログラムとかじゃなくて何かが憑依しつつあるんだと思う」
 デジタルデータに憑依する。
 何が?
 決まってる───ガルシアの亡霊だ。
 3DCGモデルの中に入って、奴は何かを引き起こすつもりだし、その結果世界がどう変わるかを黒桃はすでに知っているんだ。架空の対テロ戦争の終わりを待たずに、アメリカ政府の裏をかき、僕と美猟が覆した状況をさらにひっくり返すつもりだろう───。
 山脈の上に昇った朝日が流れる雲を輝かせてる。そのパノラマを見上げながら僕は静かに心を燃やす。
「何が起きるか分からないから、何が起きてもいいようにしておきたい」
 澄み切った表情で美猟が言う。
「マリオに洗脳のコマンドを撃たせて。紅い拳銃をわたしに貸して」
 美猟が何をしたいのか、僕は瞬時に理解する。
「罠を破れば破るほど、誘導されてくパターンを破るために?」
「そう。誰の過去も、どんな呪いも、マリオがなぞることのないように」
 しばらく僕らは見つめ合う。
 右手から紅い拳銃を出して、僕は美猟に渡してやる。
 枯れ草を分けて十歩ほど湖の方へと美猟は歩き、立ち止まって紅い拳銃のシリンダーを開く。
 唇を寄せてコマンドを吹き込む。
 何を言ったか聞こえない。
 美猟が戻ってきて僕と向き合い、銃口を僕の額に当てる。
 かちり、と親指で撃鉄を上げる。
 僕はそっと瞼を伏せる。
「どんなコマンドか、知らなくていい?」
 僕は答える。
「いい」
 美猟が小さく微笑む。
 引き金が引かれて撃鉄が落ちる。
 洗脳のコマンドが撃ち込まれ、脳に、体に、魂に刻まれて、自分の命が決定的に担保されたことを僕は知る。
「これでマリオは大丈夫。何があっても切り抜けられる───わたしもこの洗脳のことを忘れるよう、自分にコマンドを打ち込んでおくね。これで誰にも、ガルシアにだって、マリオの命は奪えないから」
 目を開けると、少女の雰囲気もなく、ブランカにも似ていない、政治家の美猟が立っていて、不敵な笑顔で僕を見ている。


(続く)

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