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ルビー・ザ・キッド Bullet:01



鉄の馬に跨って
黒いアスファルトの道を駆ける
行く手には嵐が待っている
狂おしさに焼かれて俺は笑う
出会わなければならない
渡さなければならない
不死身の心臓を
荒ぶる魂を
殺戮の荒野を超えてきた
一挺の紅い拳銃を

ルビーキービジュアルFIX


 東京を直撃しつつある巨大台風『ブランカ』は、日本の気象観測史上最大級のモンスターで、
「そんなバケモノが五月にやってくるのは、異常気象のメインステージに地球が突入したからだ」
「人類文明による自然破壊はポイント・オブ・ノーリターンを越えてしまった」
「今世紀末までに私たちは破滅の淵に立たされる」
 って学者や作家や評論家たちがテレビで引きつって語ってたけど、

今さら騒いだって遅せえんだよバーカ、
さあ行くぞ、覚悟しとけ、
メチャクチャにしてやっからさ、

 とばかりに小笠原沖で爆発的に勢力を膨らませた『ブランカ』は、関東全域を暴風圏内に捉え、三千五百万人を屋内に押し込み、首都高速を走るローズレッドのベンツ・カブリオレを蛇行させて、バックシートに座る僕にゲロを吹かせようとしている。
 吐きそうなのは武市たけち先生に無理矢理バーボンを呑まされたせいで、ボトルは隣りに座ってるハルが膝に乗っけてて、勝手についてきたくせにハルは恐ろしく不機嫌で、理由は先生が口移しで僕に酒を飲ませたからだ。
「不意打ちだったんだから仕方ねーじゃん」「怒んなよ」「てか、何でお前が怒んだよ?」
 くらいは言ってやりたいと思うけど、口を開けたら最期なので僕はじっと黙ってる。そっぽを向いてるハルの向こう、窓の外をぶっ飛んでいく嵐に呑まれた東京の街は、リアリティが全然なくってまるで夢の景色のようだ。

♪ Headline - News ♪
『今日の午後、港区五堂銀行本店を襲い、
三億円相当の金塊を強奪した犯人は、
依然都内に潜伏中と見られ、
捜査本部は全力でその行方を追っています』

 運転席の武市先生がラジオのダイヤルをくりんと回し、ヘビーラップが大音量でベンツの車内を跳ね回る。ヒップホップ大嫌いなハルが猛犬みたいにゔーと唸る。
「空にモンスター、地には銀行強盗、ふさわしい夜じゃなーい?」
 歌うように先生が言ってルームミラー越しに僕を見る。
「首都高が閉鎖されるまで、飛ばしまくってスッキリしましょう。嵐の後の青空みたく───何ならあたしとそこのメスガキ、好きにしちゃっていーんだから」
「は?何言ってんだ、このエロババァ!」
 噛みついてくるハルを無視して、武市先生がニヤリと笑う。
「あの女のこと、忘れたいんでしょ?」

ずん、

 と気持ちが一気に沈み、頭の隅に押しやっていた昨日の記憶が蘇る。
 彼女の瞳、彼女の声。
 僕を切り裂いたいくつかの言葉。
 ハルの膝からボトルをひったくり、ゴッゴッゴッとジュースみたいに僕はバーボンを飲み下す。ぼっ、と胃の底が白熱し熱いものがこみ上げる。窓を開けて顔を突き出し蛇口みたいに僕は吐く。茶色にきらめく液体が風に巻かれて飛んでいく。
「バカ!何やってんのもう!」
 背中をさすろうとするハルの手をむせ返りながら払いのける。桃色の稲妻が閃いて副都心のビルに突き刺さる。グチャグチャの気持ちで僕は笑う。風に吹かれて目を閉じる。

草彅くさなぎマリオ君、あなたとは、おつきあいできません」

 まるで鉄の杭みたいに彼女は僕に突き刺さってる───忘れるなんてできっこない。

 私立渋谷杏林学園三年三組の甲斐美猟みかり先輩に僕が一目惚れしたのは、彼女が日本の三大企業体のひとつ、甲斐グループの会長令嬢だからでも、アメリカからの帰国子女だからでも、美術部の副部長だからでも、背筋がぞぞぞとするような凄い絵を描くからでもない。
 顔だ。
 一年一学期の初日の朝、始業式が終わってクラスメートたちと教室へ向かう途中、桜の舞い散る校庭で、初めて僕は彼女を見た。
 そして胸を撃ち抜かれた。
 青みがかった短めの黒髪、陶器みたいに張り詰めた頬、瞳は黒く艶やかで、鼻はすっきりと高く尖り、唇は桜の花片と同じ色に萌えていた(ついでに言うと背は少し低めで、その高さの中に、グラマラスとスレンダーとデリカシーが調和して収まっていた)。
 でも造形の美しさだけに惹きつけられたわけじゃない。僕を虜にしたのは彼女の顔つきだった。そこに顕れている性格というか人格というか魂のあり方そのものだった。
 それは僕の心を激しく揺さぶり、ひとつの予感を抱かせた。彼女と目が合ったとき、その予感は僕の中で確信に変わった。

 彼女は僕の人生を変える。
 どうしてもどうしても自分のものにしなければ!

 仲良くなりたいとか、つきあいたいとか、そういうことを一切思わず、ほしい、と願ったあの時の僕はものすごく危ない奴だったと思う。
 あの反応は、彼女に接したことで生じた傷のようなものだった。
 惚れたというより『私に惚れろ』と指図されたみたいだった。すれ違いざまに平手打ちされ抱きしめられた感覚だった。
 それから一ヶ月を悶々として過ごした僕は、五月になって美術部に入る決心を固め、GW明けに顧問の教師に入部届けを提出した(もちろん絵なんて全然描けない)。そして昼休みや放課後の美術室でマルスやビーナスの石膏像をデッサンしながら、あまり部に来ない先輩の姿をドキドキしながら待つようになった。
 妄想野郎、ストーカー、どう思われたってかまわない、そう言い切ってしまえるくらいに僕は彼女に夢中だったし、そんなふうに誰かを求める自分に興奮しまくってた。
 人を好きになるという『感情』をそれまでの僕は知らなかった。
 世界と自分との境目が僕にはずっと無かったのだ。

 他人の目から自分を見返し、望まれてると感じた態度をとる───そういう癖が僕にはあった。どうしてなのかはわからない。三才の夏に両親が死んで伯父夫婦の養子になった時には、もうそうだった記憶があるから、親を失って愛情に飢えて媚びを覚えたってわけでもない。きっと生まれつきの性格なんだと思う。
 そんなスーパーパッシブ幼児だった僕は、育ててくれた叔父夫婦はもちろん、近所の大人たち(特に女の人たち)からめちゃくちゃ可愛がられて成長した。小学校に上がってもそれは変わらず、同級生の女の子や上級生の女子や教育実習の女教師なんかが子犬みたいに僕をかまうので、一部の男子たちから反感を持たれて、僕はけっこうイジめられた。この図式は中学でも続き、高校生になった今も基本的に変わってない。
 マリオって肌ツルツルでプリプリー、目おっきくて睫毛長くてかわいい、ボケボケっとしてて和むわー、マリオてめ調子こいてんじゃねーぞ、マリオちっと技かけさせろ、マリオちっとケツ蹴らせろ、購買行ってパン買ってこい、人数分な、お前の金で。
 そういう同級生たちの理不尽な言動に、傷ついたり怯えたり怒りを覚えることもないまま、これまで僕は生きてきた。女子たちに愛想を振りまき、男子たちをフレンドリーにかわして、そうすることにストレスをこれっぽっちも感じなかった。
 月イチかそこらで眠れなくなる夜があるけど、そんな時はエアガンを持って、真夜中の有栖川公園に行って、木や岩や水面を撃ちまくってる。三十分ほど続けていると頭がすっーと楽になって、それで僕は眠気を覚え、家に帰ってちょっと眠って、晴れ晴れとした気分で学校へ行くのだ。
「変だし、すっげー気持ち悪い。普通だったら引き籠もったり、刃物持ってる状況だよね?何で平気なの?何で怒んない?どーして笑ってられんのよ?絶対どっか壊れてるよ、あんた───ほんっといい加減、その不気味な性格直せよな」
 と、一つ年下の近藤ハルが姉のように説教する。
 叔父夫婦の一人娘で兄妹みたいに育ってきたハルは、僕をペット扱いしないたただ一人の女の子で、熱心なクレーマーでもある。
 小学生から弓道をやってるせいか、矢じりみたいに尖んがった性格で、くせっ毛のショートヘアーを揺らし、茶色の瞳を輝かせ、鍛え上げたしなやかな体ですぱすぱ廊下を歩いていって、好きなときに好きな場所へ出入りし、言いたいことを言いたいように口にしていた。
 当然色んな人と衝突することが多くなり(その大半が男子だった。女子には何故か人気があった)、そのたびに愚痴の相手にされてきた僕は、トラブルの種を撒いて歩く彼女がまったく理解できなかった。
「あたしはさぁ、人としっかりつき合いたいの、まっすぐ目を見て向き合いたいの、ムカついたらちゃんと怒るし、言うべきことははっきり言ってく。マリオってめんどくさい連中スルーすんの、すっげー上手いって思うけど、それって川の流れの中でへろへろ揺れてる草っていうか、ただ反応してるだけっつーか、人とも自分ともちゃんと関わって毎日生きてねえんだよ絶対。だから友達も彼女もいねえんだよ」
 余計なお世話だ、と思いながらも、僕は深く納得した。
 ハルの言う通りだった。
 他人に強い感情を抱いて心を乱されたことが僕にはなかった。そういう経験から遠く離れて、だだっぴろい荒野みたいなところでずっと独りで生きてきた。それを寂しいとか悲しいとか感じたことがなかったのだ。
 美猟先輩に会うまでは───彼女に恋をするまでは。

 考えに考え抜いた告白の言葉を胸に、先輩と二人きりになれるチャンスを僕はひたすら待ち続けた。待って待って待って待って、あっという間に一年が過ぎた。
 気持ち全然変わらなかった。
 そして昨日の放課後に唐突にチャンスが訪れた。
 授業が終わって学校を出て中目黒駅の改札で定期を出した時、ポケットにスマホがないことに気づいて、早足で僕は学校へ戻った。昼休みに美術部へ行ったとき窓際に置いてきてしまったのだ。
 赤く染まりかけた西の空を飛ぶように雲が流れていた。台風が近づいているらしい。雨になる前に戻らなきゃと思い、急いで商店街を走り抜けた。半開きの校門を入り、昇降口で上履きに履き替え、技術棟の階段を駆け上がって美術室のドアを開けた。
 そこに美猟先輩がいた。
 夕陽でオレンジ色に染まった美術室の真ん中で、先輩はイーゼルの前に立ち、ペインティングナイフを走らせていた。キャンバスには赤い荒野に咲く紫の花と、花の前にたたずむ黒い馬と、その馬に跨がる金髪の男と、男の背中から吹き出してたなびく青白い炎が描かれていた。
 その絵のビジョンと色彩の凄さに僕はぶるっと体を震わせ、待ち望んでいた時が訪れたことに気づいて、心臓をばくばく高鳴らせた。
 先輩が振り返って僕を見た。
 パレットを置いてウェスで手を拭き、イーゼルの横の丸テーブルの上から僕のスマホを取り上げた。
「これ?」
「あ───ど、どうも」
 先輩が近寄ってきてスマホを差し出した。受け取った僕の指先が一瞬彼女の手に触れた。
 先輩はすぐに背を向けてキャンバスの前に戻ろうとした。
 ごくん、
 と僕は唾を飲み込み、唇を舌で湿らせた。

 あの先輩、彼氏っているんですか?いますよね、絶対。でも言っちゃいます。去年の始業式で見かけた時から、ずっと先輩が好きでした。釣り合わないのは分かってます。でもその壁を僕は登りたい。人生を変える人だって初めて見たとき思いました。お願いです、僕とつき合ってください!

 一言一句暗記して、鏡を見ながらリハーサルを何十回も繰り返し、声の抑揚から間の取り方まで完璧に仕上げておいた先輩に対する告白の言葉が、舞い上がってすっ飛んでしまいメチャクチャ焦ってしまった僕は、かろうじて憶えていた最期の一言を口走った。
「つき、きひひ、あって・くださしっ」
 四回噛んだ。日本語になってなかった。
 振り返って先輩が僕を見た。窓から差し込む夕陽が翳り、美術室の中が暗くなった。黒く艶やかな二つの瞳がオレンジ色の光を弾いた。
「草彅──マリオくん」
「はい!」
「あなたとはおつきあいできません」
 ほとんど物理的なショックを受けて、僕はその場でがくんとよろけた。
「・・・えっ・・と、あ、の・・・どうして」
 雲が流れて光が戻って先輩がすっと目を細めた。
「顔」
 え。
「顔がウソくさい」
 え、え。
 絶句した。
「三年の女子たちがあなたのことを噂してる。すごくキュートでピュアだって」
「・・・・」
「違う。あなた演技してる───自分にも他人に嘘ついてる」
 桜色の唇から放たれた言葉が、スパスパスパ、と僕を斬った。
 その場に崩れ落ちそうになった。
 何か言わなきゃ。
 言うんだ、
 早く!
「あっ・・ぼ、僕」
「ありのままを生きている強い人がわたしは好き。自分を去勢する人は弱いの。弱い人間に興味はない」
 鉄の棒で殴られたように感じた。キヒイィィィンとすごい耳鳴りがして、風景がぐんぐん遠ざかった。
 先輩が僕に背を向けた。パレットとナイフを手に取ってふたたび絵を描き始めた。退場、と言われた気がした。ゆっくり足を持ち上げてのろのろと美術室を出た。
 廊下で後輩の女子部員が二人、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。
 どうでもよかった。それどころじゃなかった。
 階段を下り、昇降口で靴を履き替えて校舎を出た。西の空が真っ黒だった。空で風が鳴っていた。体だけが歩いていた。気持ちは美術室に突っ立ったまま同じ言葉を繰り返していた。
 見抜かれた、見抜かれた、見抜かれてしまった、美猟先輩に本当の自分を───。
 生まれて初めて、僕は僕が嫌いになった。

 それが三日前。
 そして今日。
 巨大台風の接近で関東全域に暴風警報が出され、部活は中止、居残り禁止で、みんなが帰り支度をしている教室に、失礼しまーす、とハルが入ってきて僕の襟首をひっつかみ、廊下へ連れ出しスマホを突きつけSNSの画面を見せた。

『草彅先輩が三年の甲斐美猟に告って、速攻フラれた』

 美術室で先輩と向き合い固まっている僕の写真が、その投稿には添付されてた。きっとあの後輩の女子たちだろう。
「これマジ」
「・・・」
「マジなの」
「うん」
「えええええ」
「何」
「バカじゃんアンタ。甲斐美猟って学校の外で遊びまくってんだよ、知らねえの」
「知らない」
「嘘じゃねえって、見たヤツいっぱいいんだから」
「そう」
「だーもう、女見る目ねー」
「うっせ」
「相手にされるわけないってわかんねえかな。絵も描けねーくせに美術部まで入って」
「ほっとけよ」
「こういう噂流れて迷惑すんのあたしなんだよ、みんなあたしに聞きに来んだよ、どんだけウザいと思ってんだよ?」
「ごめん」
「はーもおおぉぉぉう、明日学校休もっかなー」
「・・・」
 心の傷口に塩、どころか斧を何度も叩き込まれながら、ハルの後について校門を出ると、クラクションが二度、軽やかに鳴った。路肩に寄せて駐車しているローズレッドのベンツの窓から、女の人が身を乗り出し、僕に向かって手を振っていた。
 英語の武市たけち来美子先生。
 この学校で誰よりも僕をオモチャ扱いする人だ。
「聞いたわよう、三年の甲斐美猟にグラスハートを叩き割られんだって?ンー、テリブリ・プーア、かわいちょかわいちょ。私がたっぷり慰めてあげる。今から課外授業のドライブに行きましょう。アイ・ティーチ・ナフ・エッセンス・オブ・マン・アン・ジ・ウーマン・ツナイ!」
 車から降りた先生が、しぶしぶ近寄った僕の頭をかき回すようにくしゃくしゃと撫で、後ろへ回って首を抱いた。下校していく生徒たちの目をまったく気にしていなかった。
 噂に噂が重なるな───と思って僕はげんなりした。
 武市来未子先生は二十代半ばで、学校では黒髪をシニヨンにまとめ、紺系の地味なスーツを身につけ、硬そうな雰囲気を装ってるけど、プライべートではコスプレチックなウィッグとカラコンを装着し、露出度の高いコーデを決めて、外国人の集まるクラブで毎週のように遊びまくっており、その乱れた生活をPTAから証拠写真つきで指摘され、校長や教頭から教務主任から真偽を問いただされるたびに、別人です記憶にありません根拠なき誹謗中傷ですと澄ました顔で嘘をつき、平然と教壇に立ち続けているタフで美貌の変人教師だ。
 そんな非常識な勤務態度がまかり通るのは、溢れ出るエロスに校長教頭がオスとしてやられてるからだろう、いやハーバート大卒の学歴が惜しくて手放せないんだろう、そもそもあんな学歴持ってて臨時教員やってんのがおかしい、理事長の愛人が本職で教師は半分遊びじゃね、などと好き勝手なことをみんな(主に男子たち)が噂してるけど、素行の悪さとは関係なしに、先生の英語の授業はレベルが高い上に面白いので、何だかんだ言われながらも生徒たちには人気があった。
 僕も先生の授業は好きだ───ペットみたいにイジられさえしなければ。
「マリオで遊ぶのやめてくんね?」
 先生から僕を引き剥がし、間に入ってハルが言った。
「これから台風直撃すんだぞ、連れ回して事故りでもしたら、あんた責任取れんのかよ?」
 瞳を光らせ腰に手を当て真正面から言い放つハルに、艶やかに微笑んで先生が返した。
「ウォオリ・ズ・アンネセサリ。嵐の夜が彼には必要なのよ。プリミティブでラケットでリベレイテッドな心の痛みを吐き出せる夜が」
「何言ってっか全然わかんね。行くぞマリオ」
 きびすを返して歩き出したハルの後に僕は続いた。
「甲斐美猟、婚約したらしいよ。相手はキャリアの官僚だって」
 先生の声が追いかけてきた。
 ───は?
 何を言われたか分からなかった。三歩歩いて理解し僕は止まった。

 婚約。
 美猟先輩が。
 嘘だろ。
 何言ってんだ、この人?

「ほんとだよ。今職員室で一番の話題だから。卒業したら入籍するって」
 ずざああああ、と音を立てて血の気が引いた。体がアスファルトにめり込んで沈んでいくようだった。右手がエアガンを激しく求めた。今すぐ有栖川公園へ行って木や岩や池を撃ちまくりたかった。
「ダ・ルック・オブ・ジ・ウーマン・ブローク・ヤ・マインド・イズ・デトクシケイテッ。いらっしゃい───マリオちゃん」
 そう言って先生がベンツに乗り込み、助手席のドアを開けた。
 ごうう、と強い風が吹き、遠くの空で雷鳴が鳴った。
 美猟先輩の言葉が蘇った。

「ありのままを生きている強い人がわたしは好き。自分を去勢する人は弱いの。弱い人間に興味はない」

 振り返ってゆっくりとベンツに近づき、運転席の横に立った。ニヤリと顔が勝手に笑った。
「連れって下さい。どこでもいいから」
 武市先生が蠱惑的に微笑んで頷き、ハルがぽかんと僕を見つめた。
 こうして僕は嵐のドライブに出かけた。この夜を境に人生が根こそぎ変わってしまうことも知らずに───。

「美猟せんぱあぁぁ───いっ!」
 ごうごう、ぐおおおおう、びょおおおおおぅ。
「今から、僕はぁ、従妹や、英語教師とぉ、やりまくりま───す!」
 ばぶうう、ばおぼぉ、ぶおおおおおぅ。
「三人で一晩、ぶっっ通しでえぇぇす!メッチャクチャにするしぃ、されちゃいまぁぁぁ───す!」
 ぶばあぁぁ、しゅんしゅん、ぐごおおぉぉぉぅ。
 ルーフ全開で首都高速を疾走しているベンツ・カブリオレのバックシートに突っ立ち、バーボンのボトルをあおりながら、風に向かって僕は叫ぶ。一度吐いてしまったせいかワイルドターキーが痺れるように美味い。全身に酔いが火のように回り、体から自分がはみ出してるみたいだ。
 カーステのヘビーラップに合わせて武市先生が歌ってる。僕の脚を押さえながらハルが何か叫んでる。巨大台風『ブランカ』にかき回されてる東京の夜空は、渦巻く雲が蒼光りしていて悪魔的な美しさだ。
 うわあ、ああ。
 気持ちいい、たまらない。
 制服の上着とネクタイをはためかせながら僕はさらに喚く。
「でもおぉぉっ、本当に抱きたいのはぁ、あなたでぇぇぇ───す!」
「眼中にないのは、わかってまぁぁ───す!」
「キャリア官僚になんか、僕は絶っっ対、なれないしぃぃ───!」
「頭悪いし、根性無いし、顔は女の子みたいだしぃ───!」
「オモチャみたいにいじられてぇ、ヘラヘラ笑ってばっかいて───っ!」
「自分にも、みんなにも、嘘ついて生きてる、すっっっげえ、弱っちい野郎でぇぇ───すゴホッ、ゲ、ガハグフエヘッ!!」
 叫びすぎて喉を痛めて体を折って僕はむせる。ぜいぜい息を整えているうち、燃え上がるような興奮がやりきれなさに変わっていく。
 いつのまにか先生が歌うのを止めている。ハルもうつむいて黙ってる。ヘビーラップの歌声だけが風に流されて飛んでいく。ぷふぅと僕は息を吐く。込み上げた涙が風に千切れる。
「それでも・・・僕は・・・あなたが、ほしいいぃぃぃっ!」
 僕を支えるハルの手がびくっと震え、先生がフロントミラーごしに僕を見つめる。
 ムチャクチャ恥ずかしいことを口走ってるのは分かってる。でも止めたくない、吐き出したい、荒野の真ん中に置き去りにされてた自分の感情とつながりたい。
「僕は、僕が、大嫌いだああぁぁ───!変わりたい、変わりたい、変わりたいぃぃ───っ!」
 渦を巻く雲の流れ向かって叩きつけるように僕は吠える。
「ブランカぁぁぁぁぁぁっ!美猟、先輩に、ふさわしい男に、僕を───僕を変えてくれえええぇぇぇ───ぇ!」
 がびゅううう、ぼごおおぉぉ、ぶううううぅぅ。


ハッハッハ
ア─────ッハッハッハァ───ッ!

 激しい風鳴りの向こう側から笑い声が近づいてくる。びっくりして僕はそっちを見る。
 疾走するベンツの左斜め後ろで、ゴーグルをかけ白髪をなびかせたライダースーツの大男が、大型バイクに跨がってぶっ壊れたように笑ってる。
 あまりの唐突さと異様さに僕はぽかんと口を開く。ハルもぎっちり固まってしまってる。
「誰ぇぇぇ、マリオちゃん、知り合いぃぃ?」
 武市先生が訊いてくる───そんなわけがないでしょう!
 男がバイクを寄せてくる。ドカティ・モンスターの1200Sだ。真っ黒なボディに真っ赤なフレームが動脈のように走ってて、酔っ払ってる僕の目にはどくどくと脈打ってるように見える。
 ベンツのすぐ横に車体をつけて白髪の大男が僕を見る。ゴーグルの奥で黄色がかった二つの瞳が燃えている。
「そんなに、お前は、変わりたいか!好きな女に、ふさわしい男に、なりたいのか!」
 かっ、と口を開いて大男が叫ぶ。獰猛な肉食獣に吠えつかれたみたいにぶるんと僕の体が震える。
「どうなんだあぁぁぁ!」
 さらに男が吠えてくる。
 ばくばくばくばくばくばくと心臓が激しく鼓動する。
 それは怖いからじゃなく、まっすぐ踏み込んできた大男の問いに、驚きながらも僕の心が答えたがっているからだ───突然現れた、怪しくて危なくて誰だか分からない人間の言葉を、スルーしないで真正面から受け止めたいと思ってるんだ。
 ごきゅん、
 と乾いた喉に唾を押し込み僕は答える。
「な・りたい」
「馬鹿、答えんじゃない!」
 本能的な危険を感じたみたいにハルが鋭く早口で言う。ゴーグルの奥で大男の両目が金色の炎を吹く。
「その女と引きかえに、お前のすべてを失ってもかぁ!」
 ぼっ、と腹の底を熱く焼かれ、拳を握って僕は叫ぶ。
「いい! なりたい!!」
 白髪を風になびかせながら大男が凄まじい笑みを見せる。
「よし───お前に決めた」
 太い声で大男がつぶやき、ドカティをベンツからちょっと離す。
 右手でアクセルを維持しながら左手でジャケットのジッパーを下ろし、脇の下から何かを取り出す。それから体を大きくねじって背後に向けて腕を伸ばす。
 ???
 何してるんだ?
 僕はじっと目を凝らす。
 大男の左手に握られているもの───それは一挺の拳銃だった。鮮やかな紅色に塗装された古い形のリボルバー。
 は?
 エアガン?
 どういうこと?
 事態をまったく飲み込めないまま、大男が拳銃で狙っている後方の闇を僕は見る。緩く湾曲したカーブの奥から赤いランプの連なりが現れ、一拍遅れてサイレンが重なり合って響き出す。
 パトカーだ、警察だ、五、六台は追ってきている!
 僕は大男を見る。ドカティを見る。シートの両脇にセットされてる大きなサイドバックを見る。そしてラジオで流れてたニュースのことを思い出す。
 三億円相当の金塊を強奪した犯人は───。
「ちょっ、と待って・・・まさかコイツ」
 震える声で先生が言う。
「ニュースで言ってた、銀行強盗ぉ?」
 男が紅い拳銃の引き金を引く。

が・ちいぃぃぃん!

 ハンマーで岩を叩き割ったような甲高い発射音とともに、白い閃光が炸裂してドカティの尻が跳ね上がる。細くてまばゆい桃色の光がパトカーの群れへ向かって一直線に伸びていき、炎も煙も一切出さずに、

ぢゅん、

 と蒸発させてしまう。数台のパトカーと十数人の警察官が一瞬で白熱した霞に変えられ、桃色にきらきらと輝きながらカーブの向こうへ消えていく。
 ハルが切れ切れに悲鳴を上げる。先生が英語で何かを叫ぶ。僕はがくがく胴震いしながら並走する大男の横顔を見つめる。

 何だ?何が起きたんだ?
 あの銃は何だ?こいつは誰だ?

 大男が紅い拳銃を顔の横にかざして僕に見せる。それはちりちりと放熱しながら桃色に妖しく光ってる。
「来い───俺が変えてやる」
 太くて低くて荒々しい声が僕の背筋を痺れさせる。鳥肌が首までぶわっと立って頭の中が真っ白になる。

行け、

 とささやく自分の声を耳元にはっきり僕は聴く。
 ハルの両手を引きはがし、シートを踏んで弾みをつけ、ドアの厚みを思い切り蹴って、力まかせにジャンプする。
「ああっ、バカ!」
「マリオ───ッ!」
 背中でうなる風鳴りの向こうに先生とハルの声を聞きながら、ドカティのタンデムシートの先に跨るように僕は落ちる。後輪が潰れてバイクが蛇行しシートの上で体が弾む。
 再び僕は宙に浮き、背中から路面へ落ちていく。
 時速八十キロでぶっ飛んでいくアスファルトの流れを後頭部に感じる。
 大男の左手が伸びてきて僕のネクタイをひっつかみ、凄まじい力で引き上げる。布一本で僕の体と命はバイクの上に残る。
 大男が右手でアクセルを開く。ひいいいんと甲高くエンジンが唸り、蹴り飛ばされたようにドカティが加速する。嵐の夜空を見上げながら、うおおおおおおおおおぅと僕は叫ぶ。

 変わるんだ、
 変れわるんだ、
 美猟先輩にふさわしい男に!
 自分で自分を去勢しない、強い人間に僕はなる!

 僕の名を呼ぶハルの声が遠ざかって闇に消える。後は自分の笑い声とエキゾーストノートしか聞こえなくなる。


(続く)

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