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ルビー・ザ・キッド Bullet:11


 南海トラフ大震災と連動して起きた関東沖地震で、甲斐グループ傘下の経営者と大株主の全員が死亡した。海沿いのホテルで新年のパーティに集まっていたところを会場ごと押し潰されてしまったのだ。誘拐事件の取材を避けてニューヨークへ行ってた美猟先輩は、甲斐一族ただひとりの生き残りとなってしまった。
 四国の原発がメルトダウンして燃料プールが爆発した日本から脱出する人たちと入れ違いに先輩は帰国して、合同葬儀の喪主を務め、莫大な遺産を相続した。
 十八歳で甲斐グループの筆頭株主となった先輩は、ブレインに採用した若手経営者たちのアドバイスに従って、古い経営陣との契約を打ち切り、被災地復興のビジネスにグループを挙げて乗り出すと宣言し、放射能汚染された西日本から住民を移住させる国連のミッションに、資本と技術と人材を三年に渡って投下した。
 復興に尽力した企業体の若く美しいリーダーであり、スター官僚・黒桃の婚約者である先輩の動向を、マスメディアと動画配信者たちが連日のように取材しオンエアした。絶望的な状況下でも怯まず、瓦礫の上に新しい道を切り拓く彼女の姿は、打ちひしがれていた人々の心に生きる力を呼び起こした。
 国連軍が引き上げた秋に先輩と黒桃と結婚した。明治神宮で行われた式は国営放送で中継された。
 家庭に入らず別姓のままで復興事業を指揮したい、企業の力は限られてるので近いうちに政界を目指したい、とウエディングドレス姿で語る美猟先輩のビジュアルが世界中に拡散されて、ニューズウィークの表紙まで飾った。
 半年後、候補者の年齢が二十歳まで引き下げられた都知事選に、与党の推薦を取りつけて出馬した先輩は、あらゆる層から支持を受けてぶっちぎりの得票数で当選した。任期の最初の一年ですべての公約を実現し、政治家としての剛腕っぷりを鮮やかに示してみせた。
 それから三年たった今も、先輩に対する都民の支持はまったく衰えることがなく、二期目の当選も確実視されている───。
 という内容のテレビ局が作ったドキュメンタリー番組を、オフィスフロアのブースを借りてハルと一緒に僕は観る。最後まで観終わってもう一度、ところどころストップモーションをかけながら再生する。
 合同葬儀に参列する先輩。
 ───森タワーで別れたときの面影がまだ残ってる。
 株主総会で語る先輩。
 ───学生っぽさがすっかり消えて大人の顔になっている。
 国連の職員や閣僚に混じって移住会議に出ている先輩。
 ───もう第一線の企業人にしか見えない。
 明治神宮の奉賽殿ほうさいでんで黒桃と並ぶ白無垢しろむく姿の先輩。
 ───透明な美しさが目に痛い。
 街頭演説をする先輩。
 ───輝くようなカリスマを放ってる。
 当選して嬉しそうに笑う先輩。
 ───がアップになったところで、僕はため息をついて動画を止める。
「疲れた?」
 後ろでハルが訊く。
 僕は答えない。答えられない。胸がいっぱいで言葉が出ない。
 ハルが椅子から立ち上がり、僕の右手をマウスから離して車椅子の肘掛けの上へ戻す。その右手を僕は見る───そんな動作すら自分でできない現実を改めて噛み締める。
「良く出来たプロモだったね。強い男が欲しいだけ、って言い放った彼女を見てなかったら、きっとあたしも大好きになって、彼女に一票入れてると思う」
 地下へ降りるエレベーターの中で冗談めかしてハルが言う。リアクションできずに僕は黙る。病室へ戻っても喋らない。
「甲斐美猟が雲の上の人になってて、ショックだった?」
 ハルが図星を突いてくる。僕は素直に認める。
「うん。ショック、だった」
 先輩が生きてて嬉しかったし、怪我も被爆もしてなくてホッとしたし、でっかい企業体を平然と運営していて惚れ惚れした。でも、彼女がどんどん有名になり、人望と信頼と期待を集め、社会の高みへものすごいスピードで押し上げられていくのを見て、無人の荒野に取り残されてしまったような気持ちになった。そして何より───結婚式の映像がキツかった。
「今の先輩、に、とって・・・僕は、過去の、人間、なんだろな」
 底なしの喪失感を味わいながら僕はつぶやく。黒桃を暗殺して生き延びても意味がないように思えてくる。
「そうでもないよ」
 病室の壁に持たれて皮肉な口調でハルが言う。
「甲斐美猟はマリオのこと忘れてない───七年四ヶ月前の気持ちは、彼女の中にも残ってるみたい」
 僕はハルの顔を見つめる。
 それって一体どういう意味だ?
「内通者になるに当たって、彼女が提示してきた条件は二つあった。ひとつは、R-GUNシステムの中から草彅マリオを救い出すこと。もうひとつは、短時間でかまわないので草彅マリオに会わせること。呑めないなら暗殺には協力しないし、『ファクト』の存在を黒桃に教える───そう言ってあの人はライトナー司令を脅したんだよ」
 ぼっ、と体の芯が熱くなる。
 ああ、と小さく僕はつぶやく。
「そもそも黒桃を愛してるなら、暗殺に加担なんてしないしね」
 そう言ってハルが肩をすくめる。
 あは。確かにその通りだ。
 激動の七年四ヶ月間のダイジェスト映像に圧倒されて、シンプルな事実が見えなくなってた。
「・・・会える、ん、だな?・・先輩に」
 僕を見つめてハルがしっかり頷く。
 どくっ、どくっ、と心臓が鼓動し、全身に熱い血が巡り始める。
「これでちょっとはやる気になった?」
「なった!」
 自分でも驚くほどの大声で答えて僕はがちゃんと車椅子を揺らす。ハルが一瞬ぽかんとしてから体を折って吹き出して笑う。笑われても全然構わない。監視カメラで啓司ライトナーに見られてるだろうけど気にしない。
 先輩と会える、また会えるんだ!
 それが分かっただけで僕の命は燃え上がり、止まっていた時計が動き始める。殺されてしまわないためでなく、生きる喜びを手に入れるために黒桃を撃とうと僕は決める。

 次の日からリハビリがスタートする。
 医療フロアの一室を改装して作られた訓練所で、理学療法士の指示に従い、手を動かす訓練から始める。寝台に横になって肘から先の右腕を上げる練習。上がらない。ぴくりとも動かせない。休憩を入れながら六時間トライして五センチだけ上げることができる。
 たったの五センチ。
 それだけでその日はくたくたになる。
 食事して病室へ戻って眠る。色とりどりの輝く玊が分裂して増えていき、光の濁った古い玊と入れ替わっていく夢を見る。細胞の新陳代謝みたいだ、と思いながら目を覚ます。
 ハルに朝食を食べさせてもらい、看護師に排泄を介助してもらって、リハビリルームへ運ばれる。休憩を入れつつ八時間トライして、右手を十センチ、左手を五センチ、上げられるようになる。疲れ切って気絶しそうに鳴る。昨日の今日ですごい進歩だよ、と療法士が嬉しそうに笑う。
 ハルに夕食を食べさせてもらって眠る。無数の泡が螺旋を描いてぶくぶくと湧き上がる夢を見る。
 目覚めると肘から先の両腕を胸元まで動かせるようになっている。訓練所で呼吸法を取り入れて試すと、二の腕まで動かせるようになって、療法士が驚きの声を上げる。食欲が出てきてミキサー食のおかわりをハルに頼む。排泄も昨日よりスムーズにできる。
 桃色に輝く筋肉でできた太くて長くてしなやかな鞭がうなりを上げて空を切る夢を見る。目覚めると両脚の筋肉が、びくん、ぶるるん、と震えてる。もしやと思って試してみると自分の力で曲げられる。朝食を運んできたハルに見せる。療法士が飛んできたので彼にも曲げて見せてやる。信じられない、たった四日で───と療法士が目をみはる。
 リハビリのメニューが組み直されて次の日から立つ練習を始める。
 鉄のプレートに固定されたU字型の手すりにしがみつき、しゃがんだ状態から介助を受けて、力のかぎり重力に抗う。初日はちょっと腰が浮いた程度で、次の日も、その次の日も進展がない。
 焦らなくていいからと療法士が言ってくれる。二週間で介助なしで立つことを目指しましょう、と言われた日の夜、濁った川から無数の魚がのたくりながら岸へと上がり、わしわしと胸びれで地面を這っていく夢を見る。
 翌朝の訓練で一人で立つ。
 真ん中のバーを左手でつかみ、U字型のトップに右手をかけて、腰と背骨をまっすぐ伸ばし、七年五ヶ月ぶりに立ち上がる。息を呑んで立ち尽くす療法士に向かって僕は笑い、明日から歩く練習を試したいと頼み込む。
 次の日の訓練で平行棒を使って十歩歩く。その次の日に三十歩、さらに翌日に百歩歩く。四日目に平行棒を離れて介助なしで五十歩歩く。五日目に二百歩、六日目に六百歩、七日目に二千歩を超えて歩く。
 ハンドグリップで両手の握力を鍛えるメニューも一緒にこなす。テニスボールをバウンドさせて掴む練習も途中から加える。
「今日から療法士、変わるから」
 とリハビリを始めて十六日目の朝に朝食を運んできたハルが告げる。スプーンを使って軟飯食なんぱんしょくを自分で食べながら僕は頷く。排泄の介助もその日から無くなる。
 訓練室へ行くとスポーツトレーナーのような雰囲気の男女の二人組が、今後の方針を説明する。僕の場合は回復のスピードが常識の範疇はんちゅうを超えているので、進捗に合わせて翌日のメニューをどんどん変えていくスタイルを取り、必要なストレッチや筋トレを加えていくという。さっそくいくつかのストレッチを介助してもらって試した後で、歩行器を使って医療施設の廊下を休憩を入れながら三時間歩き、その日のうちに器具の補助は必要ないと判断される。
 翌日から体ひとつで毎日五時間廊下を歩く。初日は五千歩。二日目は一万歩。三日目から介助ありで腹筋とスクワットの筋トレが加わる。五万歩歩いた四日目の夜に、体毛が真っ赤で金色の目をした手足の長い猿の群れが、枝から枝へと飛び移ってジャングルを移動する夢を見る。うわぁ、気持ちいい、と声に出して言いながら目を覚ますと、性器ががちがちに勃起していて、思わず僕はぷははと笑い、七年五ヶ月ぶりに牡に戻ったことを知ってテンションが上がる。
 その日は階段の昇りを試す。余裕で上の階まで行けたので次の日から階の上り下りを行う。三日で地下三階から一階までを行き来できるようになった僕は、走ってみたくてたまらなくなる。療法士たちに話した次の日に訓練室にランニングマシンが持ち込まれて、さっそくそれで走りってみる。午前中は何度もつまづき転びそうになるけれど、午後にはスムーズに走れるようになって、夕方にはすっかり慣れてしまう。他にもたくさんの筋トレ器具が療法士たちの判断で持ち込まれ、リハビリ室がトレーニングルームみたいになって、それらのすべてを僕は試す。さすがにその日はぐたぐたに疲れてぐっすり眠って夢も見ない。
 マシンを使い出して四日目に廊下を走る許可が出る。ベース内のすべての通路を使っていいことになって、さっそく僕はコースを決める。地下三階の武器庫からスタートし、地下二階の医療ブロックを一周し、非常階段を三階の司令セクションまで駆け上がって、四階のブリーフィングルーム横のベランダにゴールすることにする。初日は朝夕一往復、二日目には三往復し、三日目四日目には五往復する。ジョグのペースからどんどん加速していってラストの周回は全ダッシュする。
 訓練を終えて部屋に戻ってシャワーを浴びて食事して眠り、猛禽になって山の上から海へ向かって飛ぶ夢を見る。目覚めながら、リハビリって言葉を誰も使わなくなってるな、と思う。右手を五センチ上げられた日から三十五日しかたっていない。
 三十六日目に啓司ライトナーが僕の「訓練」を視察に来る。筋トレと廊下を走るところを二十分ほど眺めて去っていく。
 次の週に『ファクト』の全職員がブリーフィングルームに集められ、黒桃暗殺計画のスケジュールが一年巻き上がることを告げられる。
「R-GUNシステムのコクピットに七年四ヶ月固定され、植物状態の病人のように筋肉が溶けていた『RtKルビー・ザ・キッド』のリハビリには、最低でも八ヶ月必要だとペンタゴンは計算していた───それが一ヶ月で走れるようになったことで、来年春に予定していた実行日ザ・デイを繰り上げる判断が下った」
 啓司ライトナーがそう告げて、各セクションのリーダーが変更の概要を説明している最中に、この場にいる全員の驚きと畏れが、ひしひしと僕に伝わってくる。
 きっとこれまで以上に化け物扱いされることになるだろな───でも、実際そうなんだから仕方がない。
 最後に啓司ライトナーが、新しく二ヶ月間の戦闘訓練と、英会話の教育が施されることを僕に告げる。
「専門の教官について銃器の取り扱いと格闘術を覚えてもらう。またミッション中のコミュニケーションに完璧を期すため、必要な英会話と読み書きのスキルを学んでもらう」
「わかった」
 と僕は答えて、何だか学校じみてきた、と思う。

 理学療法士から戦闘教官に引き渡された僕は、次の日から毎日午後いっぱい、地下一階の訓練場で銃器の取り扱いと格闘術を習う。
 午後の前半は、拳銃の持ち方や照準のつけ方、ハンドガンとライフルの射撃フォームや、銃器の分解や組み上げといったベーシック・タクティカル・トレーニングを毎日少しづつ身につけていく。射撃は十メートルと二十五メートル離れた標的を、ハンドガンとライフルで百発づつ撃つ。それから障害物越しや、狭い場所での近接射撃戦闘のやり方を、日本人とアメリカ人の教官から教わる。
 ハンドガンやライフルを状況に合わせて体をさばきながら構え直していくのは、ルービックキューブを回して面を揃える感覚と似てる。フォームをかちかちと切り替えながら射撃するのは面白いけど、紅い拳銃を撃つときと違って、狙いと実際の着弾ポイントが微妙にずれてて気持ちが悪い。それをアメリカ人の教官に伝えると、紅い拳銃で実弾射撃をやってみせてくれと言われ、日本人の教官が啓司ライトナーに電話して紅い拳銃の使用許可を求める。許可が降りて管理セクションの職員が拳銃を運んでくる。トランクから取り出された紅い拳銃を僕は受け取る。七年半ぶり───体感時間で一ヶ月ぶりに手にする重みだ。四十五ミリ弾を装填して二十五メートル先の的を狙う。六発全弾ド真ん中に当たる。アメリカ人の教官に、四、五十発撃ってくれ、と言われてそうする。二十発を超えたあたりから両手で構えるのがおっくうになって右腕一本で射撃する。アメリカ人の教官が興奮して英語で何か言う。日本人の教官が驚きの表情でそれを訳す。
「弾がカーブして飛んでいる!的に当たらない角度で撃ち出された弾丸が、空中で軌道をランダムに変えて的中している───信じられない!」
 そう言われて、撃ち出した弾丸(と、おそらくはエネルギーラインも)を、無自覚に自分でコントロールしてるらしいことを僕は知る。それができないから他の拳銃やライフルに違和感があったのだ。
 このことが分かって射撃メニューの半分が不要と判断され、格闘訓練に使う時間がその分だけ増やされる。ナイフを使った戦闘術と、ナイフや銃を相手から奪って倒すためのテクニックを、午後の三分の二を使ってロシア人の教官から叩き込まれる。これにはハルも参加する。教官がハル相手に手本を見せてから僕とハルが組手をする。ナイフが単純に刺したり突いたりするためだけの武器じゃなく、刃を梃子てこのように利用して、関節や急所にダメージを与える道具であることを僕は知る。そういう意味では銃よりもさらにルービックキューブ感が強い。相手の右手がナイフを突き出す、左手で止めつつ右手のナイフで相手の右腕の動脈を切る、そのまま右手を絡めて回して脇の下の動脈を切る、ナイフを戻して相手の首の頸動脈を切り降ろし、刃を返し突き上げて肋骨の下から心臓を刺す───カチャカチャ、グリグリ、チキチキ、バチン、と一面を揃える感覚だ。
 さらにナイフや銃器を持った相手と素手で戦う技術も教わる。向けられた武器を力点に使い、一瞬で形成を逆転する技術を次々見せられて僕は驚き、それらをハルがことごとく習得していることにびっくりする。動きの滑らかさと反応の速さと狙いの的確さが尋常じゃないハルに、僕は組手で殺され続ける。手足の末端の動脈を切られ、両腕をロックされてみぞおちを刺され、蹴った足を抱き込まれて足首の動脈とアキレス腱を切られ、殴ろうとした腕の皮を逆刃で手首までピールされ、エッジで指を切り落とされ、ブロックして止めたナイフの柄を膝蹴りされて腹を刺される。でも一週間もすると五回に一回はハルを殺せるようになり、Отличноアテリーチナ!と教官からけっこう本気で褒められる。
「回復も、上達も、速すぎだっつの」
 床に倒されダミーナイフを首筋に当てられてハルが言う。本気で悔しそうな表情をしてる。体を離して僕は笑う。
「走ったり格闘したりすぐできるのは、代謝の範疇なんだと思う───右手と頭が半分欠けても再生できちゃう体だから」
 代謝、とつぶやいてハルが苦笑する。
「相変わらず、命のやり取りが、全然怖くないんだね」
「うん。怖くない」
 と答えて手を取り立たせてやる。上気した頬に汗を浮かせてハルがじっと僕を見つめる。

 訓練が終わって地下一階の居住区にある自分の部屋へ戻る。
 シャワーを浴びながら鏡を見る。全身の筋肉が引きしまって恐ろしく精悍な体つきになってる。髪が毛先まで金髪に変わり、瞳の青が鮮やかになり、肌がさらに浅黒くなってて、見た目がどんどんルビーに似てくる。
 そしてまた股間ががちがちになってる。右手の指でそれを弾く。
 肉体の回復と性欲の高まりがずっとシンクロし続けていて、精通したばかりの小学生みたいコントロールすることができない。ハルと組手をしている時も、体がこすれたり肌の匂いがしたり息遣いを感じるだけで反応するので、誤魔化すのにけっこう苦労している。
 先輩とのことを思い出して僕は自分を慰める。
 セルリアン・タワー・ホテルの夜、艷やかな唇、絡み合う腕と脚、吸いついてくる白い肌───。
 あなたの跡をいっぱいつけて。
 ささやきが耳元で蘇る。
 立ったままで絶頂に達して、シャワーを浴びながら壁にもたれる。
 逢いたい、逢いたい、逢いたい。
 胸が狂おしく鼓動する。先輩と再会するためだけに今の僕は生きている。

「アイドン・シンク・ユ・シュッド・エヴァシー・ダ・イーヴルビッチ・アゲン。今の甲斐美猟と会うことはあたしは絶対お薦めしない。今度こそマリオちゃん、命落とすよ」
 地下一階のミーティングルームに取り付けられたブラックボードの前に立ち、白衣姿の武市先生がそう言い放って眉をひそめる。
「てか、二人が会えるタイミングってちょっと取れないと思うけどなぁ。ミッション当日までマリオちゃんはどこへも外出できないし、終了と同時に横田へ飛んで、そこからハワイを経由して、アメリカ本土へ直行するスケジュールって聞いてんだけど」
「誰から?」
「啓司ライトナー」
「・・そうなんだ」
 ノーパソに英語の構文を書き写す手を僕は思わず止めてしまう。
 知らなかった───会えないかもなんて初耳だ。
「美猟先輩は、このこと」
「知らないと思う。伝えろってライトナーからは言われてない」
「まずは僕をアメリカに運んで、ほとぼりが冷めてから会わせる計画───になってるのかな?」
 うーん、と唸って先生が頭をかく。
「『RtK』は合衆国入りすると同時に隔離措置されることになってんだけど、そしたらマリオちゃんはもう二度と一般の人間と会えなくなる。あの女だけをペンタゴンは特別扱いしないと思うんだけど」
 僕は胸がざわついてくる。
 先生が、あ、という顔をして話の続きを曖昧にぼかす。
「まあ、ライトナーが言ったんだったら、必ずどこかで会わせると思うけど───アイム・ソーリ・トゥ・テルヤ・サヴル・ストーリィ。これ、早く写しちゃって」
 そう言ってチョークで黒板を指す。モヤモヤしながら僕はノーパソに残りの構文を書き写す。
 毎朝九時から十一時まで、僕は武市先生の英語の授業を受けている。正しくは『ファクト』のミッションの最中にやり取りされる軍用隠語と、それを使うのに最低限必要な知識を教わってる。
 先生と再会したのは暗殺計画の繰り上げが伝えられた翌日だった。
 地下三階の病室から地下一階の居住区の個室へ移って、荷物を整理していると、差し入れのケーキを手にした先生が唐突に現れたのだ。彼女の姿を見た瞬間に感極まって僕はぼろぼろ泣いた。元気で生きててくれたことはもちろん、見た目や雰囲気が昔のままだったことが嬉しかった。先輩やハルや東京の街や日本という国そのものや、自分自身の肉体までがすっかり変貌してしまった世界で、変わらない武市来未子という女性が、過去と今と未来をつなげるフックのように思えたのだ。
 食堂に移動してケーキを食べながら、どうして『ファクト』と関わるようになったか、かいつまんで先生が話してくれた。
「震災直後にアメリカ大使館で現地職員の募集があって、ダメ元で応募してみたら特別枠で採用されて。ハーバート大卒の学歴が効いたかなって思ってたけど、働き始めてすぐに政治部政策課の上司だったライトナーから呼ばれて『ファクト』にスカウトされたんだよね。それでマリオちゃんと甲斐美猟の知人だったからピックされたんだって分かったんだ。で、グリーンカードの発行を条件にしてスカウト受けて、大使館職員やりながら、あの女と『ファクト』をつなげるキャリア・ピジョンもやってるわけ」
「何か───諜報員とか工作員っぽいですね」
「まぁ、スパイだね」
 けろっと言って先生が生クリームを舐めた。
 思わず僕は笑ってしまった。
「三年前に新都知事をもてなすパーティが大使館で開かれたとき、ライトナーから接点作れって言われてチャンスを伺ってたんだけど、あの女の方から近づいてきて、英会話教えてくれって頼まれて。普通に英語話せるのにね。何かあるなって思ってさ。それで毎週水曜に都庁通って、執務室で二人きりで授業しながら、向こうから要件を切り出してくるのを待ったの」
 すごい、と呆れつつ感心した。
 やっぱこの人は普通じゃない。そんな腹のすわった立ち振るまい方、一般の人間はまずできない。
「黒桃暗殺の話が出たのは一年たった春だったかな。ペンタゴンが都内で反政府組織を育てていることも、あなたがその一員であることも知ってる、でも国に知らせるつもりはない、夫を暗殺したがっている貴方たちに協力したいって、屋上でR-GUNシステムの砲台見ながらあの女にささやかれたときは、これは絶対に黒桃の罠に違いないって思ったよ。でも、他の諜報員たちの裏取りの結果、夫に指示された痕跡は見つからず、ペンタゴンは本人の意志だと判断して、あたしに交渉させたんだ」
「『ファクト』の方から美猟先輩を口説いたんじゃないんですか?」
 びっくりして僕は確かめた。
「逆。あの女に『ファクト』が口説かれたの」
 そう言ってコーヒーを飲み干してから、神妙な顔つきで先生が続けた。
「夫の暗殺に手を貸す理由を、未だに甲斐美猟は明らかにしてないし、訊いてもはぐらかして答えない。仮にマリオちゃんへの執着があったとしても、それが動機の核じゃない。ミッションが終ってマリオちゃんと会うタイミングで、あの女は何らかの政変を起こす可能性が高いって、ペンタゴンは踏んでるんだ」
 ───美猟に関してそんなふうに先生に言われたことを思い出しながら、授業が終わった後で僕は訊く。
「僕と先輩の両方をペンタゴンが騙してるってこと、ないですか?」
「ていうより、甲斐美猟とペンタゴンの両方のカードがマリオちゃんに対して伏せられてる、っていうのがあたしから見えてる状況だよ」
 ああ───確かにその通りだ。
 先生が近づいてきて僕の左肩にそっと手を載せ。『ブランカの夜』に言ったのと同じセリフを口にする。
「あの女のことは諦めな」
「・・・・」
「今のマリオちゃんの立場って、君が想像してる以上にクリティカルなんだよ。女にのぼせてる余裕とかないから」
「・・・・」
「黒桃の暗殺を成功させて、すべてを忘れ、存在を消されて、アメリカのどこかでひっそり生きる───この一択しかない選択肢を受け入れてほしいんだ。生き延びてくれることを、あたしも、ハルも、心から願ってる」
 僕は黙って先生を見上げる。
 授業が終わって食堂へ行く途中でやみくもに僕は走りたくなり、部屋に戻ってノーパソを置いてウェアに着替えてダッシュする。いつものルートを五往復してから、ブリーフィングルーム横のベランダに出る。
 鈍色の空と鉛色の海を荒い息を吐きながら僕は睨み、自分自身に問いかける。
 先輩と『ファクト』の両方から騙されていたとして───彼らの思惑とは関係なしに、お前は何をどうしたい?
 あっという間に答えが出る。迷わず僕は心を決める。そして啓司ライトナーの本音を確かめなければと考える。


(続く)

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