卒業式と入学式
今回は、心因性頻尿を抱えている私にとって卒業式・入学式がどのようなイベントであったかについて書いていきます。最後までお読みいただけると幸いです。
今年はコロナウイルスの影響で規模の縮小や中止が相次いでいますが、例年ならば卒業式・入学式が一通り終了し、新生活に適応し始めている時期です。みなさんは卒業式・入学式に対してどのような印象を持っているでしょうか。SNSへの投稿を見ると卒業式・入学式の中止を嘆く声を多く目にします。
小学校、中学校、高校、大学など学校という学校の生活はいずれも入学式で始まり、卒業式で終わります。これらは大切な式典であり、その学校の生徒・学生になること、そこから離れることを強く意識させるイベントです。どちらもそこには祝福の意味が込められているでしょう。
長時間じっと座って偉い方の話を聞くことは退屈に感じる方も多いかと思いますが、式典の前後には立て看板に写真撮影の親子が殺到し、そこはたくさんの笑顔で溢れています。多くの人がその日を楽しんでいます。
しかし、私はそうではありませんでした。卒業式・入学式ではかなりの不安を感じていました。
私が初めて卒業式で不安を感じたのは小学4年生のときでした。私の通っていた小学校では、4年生から在校生も卒業式に出席しなければいけませんでした。当然のことながら、卒業式に向けては前々から多くの準備がなされます。1か月前くらいから授業の中に卒業式練習が組み込まれていたと思います。起立・着席のタイミングの統一、門出の言葉(1人1人台詞を言っていくやつです)、入退場のリコーダー演奏などを練習していました。そして、だいたい卒業式練習は2コマ連続(計90分)で行われ、まだまだ寒い体育館で姿勢を正して座り続けている必要がありました。これはどの学校でも同じようなものだと思います。
当時から授業の合間には欠かさずトイレに行っていた私は既にトイレへの意識を強く持っていました。そんな私にとって、3月の体育館に椅子を並べてクラスメートに囲まれてただ座り続けるというのは次第に苦痛になっていきました。トイレに行きたくても行きづらい状況であり、それがまた尿意を誘発していったからです。
不思議なことに、トイレのことばかり考えていると実際にトイレに行きたくなってしまいます。気にしないほうが良いのはわかっているのにそうすることができません。
こうして、卒業式・入学式=トイレへの不安という構図が自分の中に形成されていきました。
以後、小学校の卒業式、中学校の入学式&卒業式、高校の入学式&卒業式、大学の入学式と毎回大きな不安を抱きながら私はこれらに臨むのでした。
早くこの時間が終わればいいのに、早くこの束縛から逃れたいと思うときに限って無情にも時間の経過はゆっくりに感じられます。自室でゲームをしているときの20分と、式典中にトイレを我慢しているときの20分とでは、時間の長さの感じ方が大きく異なります。
私が不安を感じる目安の1つとして、トイレに行きづらい時間がどれだけ継続するかというものがあります。この点では、入学式は卒業式に比べればまだマシでした。また、寒さによってもトイレが近くなり、かつイメージとしてもそれは持っているので入学式のほうがマシです。入学式のほうが嫌なこととしては、初めて足を踏み入れる場所なので緊張するということと、トイレの位置がわからないまま式に参加するという点です。しかし、卒業式は何度も体育館で練習を重ね、そこで生まれたトラウマがその空間とリンクして頭に残り、それを抱えたまま本番に臨むのでこちらも嫌です。
それぞれの式典の様子は今でも鮮明に記憶として残っています。毎年、3月が近づくと卒業式と入学式のことで緊張感を持った日々を過ごしていましたし、その本番ではかなり神経をすり減らしました。
高校の卒業式では、3日前から食事以外での水分摂取を断っていました。
式典後に笑顔が見られるとするならば、私の場合、それは卒業や入学に対する喜びではなく無事に式典を乗り切った安堵によるものです。
今年自分が卒業生だったとしたら、式典の中止でがっかりする人たちとは逆に、式典に出ないで済むことにラッキーだと感じたことでしょう。
出来ることならあの空間に身を置きたくないですからね。それにしても、トイレのことを考えることなくあの場にいられる人が羨ましいです。結局は、こんな自分に対する憎悪に帰着するのですが。
今回はこれで終了といたします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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