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滝口悠生『高架線』について

滝口悠生という人の書く話がとても好きで、どれもこれも捨てがたいが、最近ひさびさに読み直した『高架線』(講談社)という本について書いてみたい。

ぼんやり読んでもじゅうぶんに楽しい本で、はじめて読んだときは、なんだかおもしろい話だな、くらいのことを思っていた。
読み返してみるのにあたって、じっくりと自分に照らし合わせて読んでみると、また新しい印象があった。
夏目漱石の「こころ」みたいな生々しさやずしりと重いものはないけれど、人間のことが書いてある、と感じてしまうような本だった。

ここで大事だと思うのは、人間のことが書いてある、というところで、自分のことが書いてある、というわけではないところだと思う。

この『高架線』は、さまざまな人々の経験や記憶によってつづられていて、文通したり失踪したり、と明らかに(読んでいる、この)自分の経験していないことが突拍子もなく続いていく。
だから、読みながら、これは自分のことだ、とはあまり思わない。
あと、そういう意味で、展開が読めないので楽しさが湧いてくる。

『高架線』を読む感覚は、なんというか、人から打ち明け話を聞くときに似ている。
読む人(聞く人)は、人の語ることを大事にしようと思って聞くし、ときには自分のことのように感じて怒ったり涙することもある。

けれども、それは突き詰めてみると自分のことではない。
いくら自分のことのように感じても、それが自分のことにはならない。
語られたすべてをそのまま飲み込めるわけではない。
『高架線』では、これほんとにあったことなの?と疑ってしまうような嘘くさいエピソードも語られる。

結局、人の話した経験や記憶を、すべてわかるということはできない。
自分でない人のことを、すべてわかるということはできない。

その反面、『高架線』には、すべてをわかるわけではない他人と、付き合ったり、結婚したりしている人たちが出てくる。

わからないということを引き受けて、人のわからない部分に、切実に向き合ってみる人間の姿が書いてある。
その切実さがとても好きだ。

私はもしかしたら三郎と同じところにいた歩を、自分の生きられる世界に引っ張り込んでしまったのかもしれない、と実は思っていたのだけれど、そうではなくて、三郎がいたから歩がああいう人になって、だから私も歩のことを好きになって、そうやって元のところに留まらないで、次々動いて移動していくようなものなんだな、人が生きるということは、と今はそんな風に考えています。(p.133)

このフレーズが出てきたとき、晴れてまぶしく薄白くなった空に、ぽーん、と放り出されたみたいな気分になったのだけど、この感じを完全にわかる人はきっといないし、わかる必要もおそらくない。

でも、それでもいいんだということを、この『高架線』は教えてくれるんじゃないかと思う。

人の書いたものを、自分が受けて、新しく書いてみる、というのは思ったより難しくて、こんなことでいいのかはわからないけど、とりあえずここまで。



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