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3分でわかる 「芥川賞」と「直木賞」の違い

(3分でわかる)



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対象となる作品が違います

芥川賞は純文学

直木賞は大衆文芸




芥川賞

 各新聞や同人誌を含む雑誌に発表された純文学短編作品中、最も優秀なものに呈する賞。ちなみに純文学とは大衆文学や小説一般に対して、商業性よりも「芸術性」「形式」に重きを置いていると見られる小説を総称する、日本文学の用語を示す。中編、短編が対象となる。

直木賞

 各新聞や同人誌を含む雑誌、あるいは単行本として発表された短編および長編の大衆文芸作品中、最も優秀なものに呈する賞で応募形式ではない。大衆小説、大衆文学とは純文学に対して芸術性よりも娯楽性、商業性を重んじる小説の総称である。「娯楽小説」「娯楽文学」も同義語。「通俗小説」「通俗文学」とも呼ばれた。

年に2回の同時選考会

 芥川賞も直木賞も、昭和10年に文藝春秋社の菊池寛によって制定されました。選考対象は、まだこの賞を受賞したことがない無名、新進作家や中堅作家(直木賞)で、選考は年に2回(上半期は7月、下半期は翌年1月)です。両賞とも対象期間中に刊行された作品の中から、数度の予備選考委員会を経て最終候補作が選ばれ、選考委員の討議によって受賞作(1作または2作)が決定します。賞品は芥川賞も直木賞も懐中時計と副賞100万円。

直木賞の直木ってどんな人?

 ところで芥川賞は、知名度抜群の芥川龍之介ですが、直木賞の直木はあまり聞きませんね。とても不思議です。そして、苗字は知っていても下の名前は聞いたことがないし、どんな小説を書いた人なのかもあまり知られていません。

毎年、名前を変えていた直木さん

 「直木賞」にその名を残す作家、名前は直木三十五なおきさんじゅうごです。彼は自分の年齢に合わせて毎年、ペンネームをかえていました。31歳のとき「直木三十一」のペンネームでデビュー。その後年齢とともに「三十二」「三十三」と増やし、「三十四」を飛ばして「三十五」となったときに定着させました。
 本名は植村惣一です。「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものです。34歳の誕生日を迎えたとき本人は、「直木三十四」と書いたのに編集者が勘違いから、「直木三十三」と書き直してしまった。しかし、当の「直木三十四」は、それを訂正することはせず、「直木三十三」を使っていました。しかしながら、「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」とか「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌がって直木三十五と名を改めました。
 それ以降は、改名することはありませんでした。理由は、「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからと。また、菊池寛から「もういい加減にやめろ」と忠告されたとも言われています。

なぜ直木賞に抜擢されたのか

 そんな直木さんですが、なぜ「直木賞」というカンムリに抜擢されたのでしょうか。また、日本文学の最高峰とされる賞につけられた名前の作家の本が、なぜ知られていないのでしょうか。
 その直接的な理由は、直木三十五が小説家としてだけでなく、この賞の主催者である文藝春秋社に売上げなど、様々な面で多大な貢献をしたということらしいのです。彼の才能は小説だけでなく、雑誌の企画や編集も優れていたとも言われています。さらに、文藝春秋社の経営者でもあった菊池寛との親交もまたその理由です。賞の制定は、あくまでも雑誌の宣伝として始めたもので、現代ほど有名な賞になるとは想像していなかったのでしょうね。

短い期間だったが売れっ子作家だった

 直木三十五の代表作は、「南国太平記」で幕末の薩摩藩の有名なお家騒動であるお由羅騒動をテーマにした時代物ですが、史実に忠実な歴史小説というよりは、かなり荒唐無稽な伝奇小説に近く、はじめて忍者を登場させるなど画期的なものだったとも。本作を原作に10本の映画がつくられ、そして封切りされると異常な人気だったという。短い期間ではあったけれど売れっ子作家という存在だったらしい。
 ただ、作品はほとんどが作家が生きているときは、書店にたくさん並びますが、死後は再版もなくなっていき、私たちの目には触れなくなってしまったのでしょう。



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