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山口尚 「日本哲学の最前線」 読書メモ

いずれ取り組みたいと考えていた日本の哲学、その最前線がまとめられている書籍があった。國分功一郎・青山拓央・千葉雅也・伊藤亜紗・古田徹也・苫野一徳の各氏の思想を紹介する。J哲学と呼称するらしい。

J哲学とは、J-POPからの習いで、Japanese philosophyからの言葉。

J哲学の旗手たちの思索には人間の「不自由」へ目を向けるという共通の視座がある。すなわち、単純に「自由」を希求するのではなく、人間の避けがたい不自由を直視したうえで可能な自由を模索するのである。

以前から日本哲学という領域があったが、輸入と土着の枠組みを超えた思想としてJ哲学として区別している。

J-POPとの対比は、顔の見えるポピュラーミュージックとしての普遍性を追及するという点が共通しているとして、顔の見える思想としての紹介を趣旨とする。先の6名の思想、それぞれの顔があっての思想であるという。


國分功一郎の中動態の解説から始まる。彼の書籍を二つ挙げて、概観し、彼の思想はどのようなものか丁寧に解説している。行をなぞりながら、頁をめくっていると、まるで講義を聞いているような感覚になった。

能動態と受動態、そこに分類されない中動態、古代ギリシヤ語を参照しつつ、中動態について簡単な解説がある。する/されるでは表現しきれない中動態、意志に対する批判として参照している。

人生を意図的に充実感のあるものにはできない。何かに興奮できるかどうかは重要な点で意識的な思惑の統制を超えている。だから偶然性に賭けるような仕方で何かを待ち構えようではないか。何かをコントロールするのとは別の仕方で希望をもとうではないか。

不自由さがJ哲学の主題としてある。

2章は國分から青山拓央へリレーする。

「時間と自由意志」からの参照でテキストが進んでいくが、「心にとって時間とは何か」を参照する。

過去と記憶の関係性としてデッサン画をあげている。描いている途中のデッサン画は空白があるし、決まっている線とそうでない線があり、記憶の確からしさを記録に寄って補うことができる。そうすることで、デッサンを描いたり消したりするという。

こう考えれば《私たちにとって完全に確実な過去はありえない》という点にも気づかれる。むしろ私たちは特定のデッサンをたまたまもっているに過ぎない。とはいえこれは《過去は何でもありだ》ということを意味しない。

過去と記憶のデッサン性、過去を思い違いなどで書き換えたりするが、完全に新しいデッサンにすることはできない。消して描き変える。
ラカンの書籍を読んでいて、自己同一性だったか、自身の記憶を辿っていっても、生まれた時の記憶までは辿れない。そうしたことを思い出す。

一人称にあるとき、自由は存在しない。コーヒーか、紅茶を選択するときもどちらを選んだにしても自分の内面から出てきたことであるため。特定の誰かと居る場合、相手に合わせるか合わせないかという点の自由があるだろうか。

私の内から新たな何かが「クリエイティブに」生み出されるさい、私は〈自分さえも予期しなかったもの〉を創り出す。創造には不可視性が伴う、ということだ。


ハイデガーを引用した國分の理論を青山が強化するという。

理を尽くして考えればまさに「意志が始まりを所有したことなどあったためしがない」と言えるのである。

無自由についての青山の主張、そのバトンを引き継ぐのが千葉雅也だった。

もちろん『動きすぎてはいけない』を示しているが、これまでの流れから千葉の思想を紹介するにあたって『勉強の哲学』を参照している。

無意味なことをしてはならないという「強迫観念」が却って行動の足かせになる、ということだ。それゆえ、行為するためには、どこかの段階で自分の意図や思惑を放棄せねばならない。そして自らを偶然性へ委ねなければならない。

言葉の物質性という指摘がとても刺激的だった。

ノリ、ユーモア、ボケ
こだわりに潜む個性
コードをずらす

今的な感覚をアップデートしていく。そんなことを得られた。

後半3人も同様に書籍を取り上げ、J哲学の不自由さについて考察が進んでいく。この本を出発として6人の書籍に入りたい。


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