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レジリエンスについて

あいちトリエンナーレの帰り道、思索のスパイラルに入っていた。

鹿沼の事故をテーマとしたインスタレーション。それが、僕にとても影響を与えた。ショックを受けたというか、その事故を思い出したというか、自身に投映したというか。思考がグルグル回る。

最後に見るべき展示じゃなかったな。クライマックス効果として捉えてしまい、帰り道ずっとリフレインしていた。恐らく、この作品を最初に見てから他の作品を見ていたら、また違った感想、印象を持ったものと思う。朝から一日かけて、7会場の展示を見て回った疲れと、近所で飲んだ生ビールとの酔いが、余計に感情を揺さぶったようだ。

この作品が提示したものは何だろうか?

それによって解釈は何だろうか。

弓指寛治の作品、絵のタッチが記憶の中の顔を表現しているようで、展示全体を含めてナラティブだった。絵が勝手に物語を紡ぐというか、疑似体験、追体験をさせているかのよう。そして、被害者だけでなく、加害者へのアプローチもしている。

この展示を見た被害者の一人の父親は、とても喜んだということ。2011年の事故、父親は忘れないで欲しいという思いがあったみたい。

AI・機械学習による自動運転が普及するようになるのが2030年頃と言われている。世界各社が、走行試験データを集めているのだけど、実用化のテスト段階では犠牲も出るかもしれない。そうした中で、日本は自動走行車の責任を明文化する法律を用意している。それでは萎縮して開発競争に負けてしまうだろう。そんな声もあった。この展示を見て、日本の法律制定は良かったのだろうと思った。少し前は多少の犠牲は仕方ないと思っていた。

前回のnoteに書いた現代アートの鑑賞、ディスコースからカタルシス。その先にレジリエンスがあると気が付いた。

レジリエンスとは、回復性とか、適合性とか、そんな意味で捉えている。生命、有機体ならではの機能だと思う。この展示は、ある意味ではストレスを受けた鑑賞だった。そうした感情、展示のテーマとなった事故、それらを事実として受け止め、自分の中で消化する。なんというか、心の強さが少し上がったような気がする。

そして新たな作品への解釈が始まる。そんな風な考えに至った。

ゼミの先輩のアーティスト。Y先輩。彼女が言うには、アーティストには暗く深い部分もある。そうした部分を持ち合わせているからこそアーティストなのである。その言葉の意味が少しだけ身についたような気がする。




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