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ゴドフリーの『コンセプチュアル・アート』再読メモ 脱物質化、展覧会、体験

修士論文に着手するにあたり、60年代のコンセプチュアル・アートの流れを整理する必要に迫られた。難解な現代アートはコンセプチュアル・アートから今に接続していると考える。60年代後半から70年代前半までの社会情勢も踏まえながら、再考していきたい。

修士課程1年目。美術教育を受けていないために、遅れを取り戻そうと、積極的に展覧会、書籍、映画などからインプットし、2年目に至る。幸いにして研究着手許可が出た。ほっとした年次切り替えのアイドリング中に、修士論文のテーマを考える。アーティスト研究をしようと、ぼんやりと浮かんできて、半月ほど、もやもやしていた。3月にフィリップ・パレーノ展を見て、そうしたもやもやに一本筋が通った気がする。その筋によって、1年目にインプットしていたことが、繋がっていき、強固な思考の鎖を形成していったような、全てが繋がるというか、関連していくような、そんな不思議な感じ。再活性化していく思考。

もう一度、ゴドフリーの『コンセプチュアル・アート』を紐解く。

一回目に読んでいたのは、2019年の6月あたり、上記のnoteにあるように、読むのが辛かった(書籍のタイトル間違えてるし)。知らない単語、今までの経験に無い言い回し、ゴール・結論のあいまいな表現。長年のコンサルタントとしてのキャリアでは、文章はゴールを仮置きして、そこから逆算した論理展開などを行い、説得力と納得感のある資料作りを行っていた。なるべく文字数を削る。アートの勉強になり、全くの発想の転換に苦労した記憶がある。ゴール(という答え)の無い今の時代、現代アートを学ぼうと思った動機、すなわち修士課程に入ったことを思い出す。そうしたモチベーションと経緯については、このnoteでまとめてきたつもり。

コンセプチュアル・アートとは何だったのか。

コンセプチュアル・アートは1966年から72年にかけて、頂点と危機を同時に迎えるにいたったと言えよう。この名称が一般に使われるようになったのは1967年頃だが、なんらかのかたちのコンセプチュアルな芸術は、20世紀に入って以来ずっと存在してきたとみることもできる。(P.8)

昨年、様々な展覧会で見てきた現代アートは、何らかのコンセプトを持っており、見る人に、それを投げかけており、解釈の幅を持たせていた。煙に巻いたりすることもあるけれど、ともかく、「何だ、これは?」という驚きをもたらしてくれた。思考のトレーニングあるいはトレッキング、なんとも心地良い体験だった。

ゼミ同級生と話をしていて、「僕の作品はコンセプチュアルだけど、コンセプチュアル・アートじゃないよ。」という言葉が、ずっと気になっていた。コンセプチュアル・アートとは何か、どこへ行ったのか?

70年代前半までの過熱、80年代の内省を経て、90年代に入り作品の方向性が変わってきた。脱物質化した概念だけの芸術から、体験・経験、関係性への転換が行われた。

マーケットの面からも確認しておきたい。ゴドフリーの書籍の中でも、コスースの作品に対して札束が詰まれるという表現があった。映画『アートのお値段』では、30年前には、現代アート部門が無かったという証言、アートバーゼルのレポートを見たところ、ディーラーのセールスの半分が現代アートが占める。少なからずアート市場、資本主義へのアンチテーゼとして始まったコンセプチュアル・アートが、資本主義の原理に飲み込まれるという構図、あるいは資本主義の仕組みにアートが介入したのか。コンセプチュアル・アートから現代アートまでのマーケットの動きについては、別途研究していきたい。

さて、読書メモに入る。

コンセプチュアル・アート、脱物質化

コンセプチュアル・アートは、四つの形態をとっているはず。

1. レディメイド
外の世界から持ってきた物品でありながら美術であると主張する。あるいは美術として提出されるもの。デュシャンの泉。

2. 介入(インターヴェンション)
なんらかの画像、文、モノが予想外の脈絡や環境に配置されること。そうした事によって、脈絡や環境に関心が向けられる。フェリックス・ゴンザレス=トーレスの看板プロジェクト。作品を見る一人一人が意味を発見する。

3.  ドキュメンテーション
概念、行為、実際の作品がノート、地図、配置図、チャート、写真といった痕跡を残す事。ジョゼフ・コスースの椅子。

4. 言葉
概念、提言、調査が言葉で残される。ブルース・ナウマンのネオンサインの言葉。

コンセプチュアル・アートは反射的であり、 継続的な自己批評の状態をあらわしている。 ルーシー・リパードは、「 アーティストの数だけコンセプチュアル・アートの定義がある。」としている。

「私は、私がいかに思考しているかについて思考している」という語句と同様に、オブジェクト(客体、物体)がさかのぼってサブジェクト(主体)に言及するのだ。(P.10)

つまり、作品が提示されたコンテキストと、見る人との関係性、そうした体験感覚が見る人自身に返ってきて、さらに作品に向き合う。

批評家のルーシー・リパードは、美術品の「脱物質化」こそが定義を左右する素因だと力説したが、ほかの人々はそれは妄言だとしてしりぞけた。 (P.13)

こうした主張は、少し早かったのかもしれない。ルーシー・リパードは、1995年に「美術品再考:1965年-1975年」という回顧録のカタログで「私にとってコンセプチュアル・アートとは、観念が最重要であり、物質面は二義的、そして軽量で一過性、廉価で、気取りがない作品のことである。 それは非物質的である場合も、そうではない場合もある」。脱物質化を定義づけている。アートの脱物質化は重要なキーワード、"Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972"は、ルーシー・リパードの重要な論文。この論文にあたるべきかは、他の資料も含めて検討していきたい。

モダニズムが支配的な基準となり、フォルマリズムによって頂点に達した。その反発としてコンセプチュアル・アートが出現した。(あるいはモダニズムの断末魔という表現もある)。精神論だけになっては乾いていってしまう。これは『ゲーテからベンヤミンへ』の中でも見つけた。芸術の権威。モダニズム、フォーマリズムとしての物質、芸術としての芸術として枯渇していく様子。

精神論では、肉体を持たず、乾いていってしまう 。

モダニズムのアートは細分化された密室的な言説の場と化しており、コンセプチュアル・アートはそれを開放して、哲学、言語学、社会科学、民衆文化へとつながる道をつけた。(P.14)

様々に接続する道を見つけたコンセプチュアル・アート。その繋がる先は社会、日常生活である。この当時の時代性とは、どのようなものだったのか。第二次世界大戦の終了後、新しい世界秩序が構築されてきた。政治的権威はヴェトナム戦争によって失墜し、1968年のパリの学生蜂起から、カウンターカルチャー、ヒッピー文化に接続していく。変わりゆく世界。パリのソルボンヌ校は学生のコミューンになり、向こう見ずでユートピア的な陶酔の時間。この運動によってド・ゴール政権はダメージを受けた。1969年のニクソン大統領の就任はヴェトナム戦争の転換点だった。1975年の終戦までに世界は大きな変化を経験した。

芸術としての自己主張。こうした混沌の時代に登場したコンセプチュアル・アートは、知的考察と日常の双方に関心があり、批評精神に基づいたひとつの伝統であった。思考あるいは意識の「視像化」は主要な目標だった。

思考の視像化とは、何か。

ピカソの《椅子の藤張りと静物》が提示したもの。言葉は現実との接点であり、不完全な文字は解読するための思考を誘発する。デュシャンの言葉、「絵画には物質的側面を超えるなんらかのものがあるかもしれないのに、そういう思考はまったく存在しなかった。自由という考え方を教えることすらまったく例がなかった」。

フルクサス、ミニマリズムが、コンセプチュアル・アートに接続する。ほぼ対角線上にあった相反する運動なので逆説的な展開である。初期のフルクサスのパフォーマンスは、遊びの要素が多かった。ここでいう遊びとは、意味のないもの、ナンセンスであるもの。

これらが一体となって、モダニズムその他の伝統への攻撃となったことは確かだ。まさにダントが予測したように、それらの伝統ないしは歴史は事実上終わった。(P.100)

変動の時代にあって、変革を促したもの、現状の批判から出発。フルクサスのコレクティブ は、身の回りの生活に人々の眼を開かせる現実的な役割を果たした。フルクサスの運動、無意味、ナンセンスなもの、これは「なにが芸術たりうるか」という疑問を提出した。

リフレクション(自己内省)を呼び覚ますトリガーとしての現代アート、その下地は、コンセプトと、それを視覚化する試み、あるいは視覚化に至らない概念だけの提示、そうしたもので、一層掘り下げられる。

芸術におけるモノと世界におけるモノとの曖昧な区別について、見る者はいやでも考えた。 まず作品そのもの、また同じ重要性でそのすぐまわりの環境、そして自分自身について考えさせられる。 まずアーティストの頭のなかで概念として始まり、見る人の頭のなかで自己省察に結晶する、そういう経験がそこにはひそんでいる。 アーティストまたは批評家は「この相互作用にはどうしても事物が必要なのだろうか」と考え始めた。(P.112)

一旦、事物を離れる必要があったのだろう。ここでの事物とは、いわゆる芸術品と呼ばれるようなもの。このあたりについては、次のnoteに書いたつもり。

経験することと経験を検証すること、その両方の場としての身体を重視し、この点で両者は似ていた。 モノから離れて個人的な体験へ、共同の体験へ。 この理想的なモデルはダンスだろうと考えられた。 (中略)彫刻あるいはダンスどちらとも考えられるし、また、個人的であると同時に共同の発言とも、行為、オブジェ、隠喩、そのいずれとも受け取れる。(P.120)

ダンス。身体を通して経験する。その経験を通じて、自己と世界との関係を考えさせる、あるいは世界と自己とを認識させる。それこそオブジェクトがサブジェクトに接続していき、最早モノである必要すらもない。

最近、考えているのが、身体性と絵画、ダンスそのものをアートとして提示するならば、それは絵画とは違うけれども、線もしくは面として提示される軌跡は、絵画的な印象も持たせるものではないだろうか。軌跡を視像として脳内に残すというか、もちろん現在の技術では、モーションキャプチャーなどにより、映像的なエビデンスを残すこともできる。記録を残す必要があるのであれば。

「「アート」という概念の基盤を」探るというコスースの言い方(これは分析的、言語学的な作業に定義の範囲を狭めている)。 そしてリパードの美術品の脱物質化という見方(だが、「脱物質化」より「脱神秘化」という言葉のほうがよいとするアーティストもいる)。 単一の定義でこれらすべての作業をあますところなくカバーするものはどこにもないが、それそれの共通する特色がある。 すべての作業にはなんらかの共通する特色がある。モノあるいはイメージにはそのものだけの固有のオーラというものは付与されていない、アーティストの役割が曖昧にされている、作品が見られる文脈が意識化されている、 そして、潜在的に、作品はそれまでに聞かされてきた意見や信念を批判する立場から作られている。 自己意識の本質について言及している。私たちはいやおうなく、自分が考えているということについて考えさせられる。 (P.142)
脱物質化の傾向を生んだもう1つの大きな理由として、アート市場への嫌悪があげられる。 「物体から観念への転換は、商品 ーこの社会の神聖不可侵のものー という考え方への軽蔑を意味している。 コンセプチュアル・アーティストたちはアートを「金儲けの商売人」ではなく、アーティストのものとして取り返すべく、この仕事をする者の責任ある姿勢を提案する」。 美術品を一掃すれば、アーティストは「様式」や「質」による値踏みを避けることができる、と。(P.164)

それまでの事物からの決別、新たなステージに向かうということか。それは連続しているものではなく、発生してきたものだろうか。取引対象としてのモノを残す事すら拒否したアーティスト、作品よりもコンテキストが重要になった。

コンテキストとコンセプト。

必要なのは想像すること、自分の意識を拡張することだ。 このような経験をしてはじめて事物は真に脱物質化され、観念以外なにものもない状態になる。(P.170)
これは分類に関する思考演習なのだが、「身体感覚」とか「感情」といった言葉が使われており、ここには映画鑑賞や彫刻を見るのと同じような感覚的、感情的な経験があることが分かる。(P.170)

鑑賞者に対するコミットが求められる。ただ、通り過ぎるのではなく、じっくりと向き合う。しかしながら、鑑賞するという同意が得られなければ、ガラクタのように見えるかもしれないし、あるいは、何も存在していないかのように感じられる。一見すると、危うい基盤の上に成り立っているようにも思える。「え、これがアートなの?」、「なんでもありじゃん」そうした声があることも分かる。1年前は、僕もそうだった。とはいえ、批評的価値、マーケット的価値、そうしたものが付与されてきている。これは、何かがあるに違いないと思うのが自然な反応。まさに、先ほど引用したコスースの言葉、その思惑に、まんまとはまってしまったのか。

1969年。テト攻勢が、政治的、経済的、技術的なモダニズムへの弔鐘であるとしている。後述する「1月展」、「態度が形態になるとき」の両展覧会は、アートにおけるモダニズムに対する弔鐘だったのではないかと続ける。

ヴェトナムのトラウマは20世紀後期という時代を画する分水領だった。(P.189)

モダニズムが抽象画の正当化、脱絵画的な抽象芸術を確立したように、コンセプチュアル・アートは、芸術の脱物質化という習慣を確立したのではないか。1960年代に、モダニズムは、フォルマリズム、抽象表現主義と同義語になり、クレメント・グリーンバーグによってフォルマリズム的解説の到達点を示した。

ポスト=モダニズム 。当初は建築分野に現れた。折衷的な作品の形容に用いられたが、ジャン=フランソワ・リオタールは、より広い範囲にあてはめ、さまざまな重要な言説が崩壊したあとの世界の状態を表す言葉とした。そこから産み落とされたエッセンスあるいは膿のようなもの。美術では、作者の死滅という観念、オリジナル、本物の意味をめぐる議論と関連して扱う。


展覧会

1969年から70年代初頭にかけて、展覧会が意味を持ち始める。

展覧会制作の仕事もアートの一形態だと考えられるようになり、創造的にアーティストと関わる役割へと変化したのだ。(P.198)

芸術への反発という意味合いもあった初期のコンセプチュアル・アート、美術館の外での活動もあった。

もともとアートは人々に帰属するものだったにもかかわらず、頽廃的な金持ちの玩具となってしまった(P.191)

1968年のヴェネチアン・ビエンナーレは、学生たちが金持ちのための芸術を痛烈に批判する。各国が威信をかけて展示をしていた。

アート市場への嫌悪、資本主義。アメリカが進めてきた民主主義と自由主義。ヴェトナム戦争でのアメリカの挫折、写真が世界に与えた役割。(ここでの写真はアートとは別の文脈。アートと写真については、恐らく大学院の新入生が何らかの研究を提示してくれるものと思う。なにしろ写真の新入生が多かった。)

非常に消費的な社会では「かつては直接経験していたあらゆることが、たんなる表象となってしまった」と説いた。 事物と生命活動のイメージの変容は「スペクタクルが、イメージに仲介された人間同士の社会関係となった」ことを意味していた。 (P.192)

ここでのスペクタクルとは、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』。マスメディアの発達により、資本主義の形態が情報消費社会に移行し、生活がメディア上の表象となってしまったこと。

自己を形成するのは、企業が生産した商品とそのイメージ、それらを広告によってまとめあげられ、メディアに乗って消費者に届けられる。消費者が選択したのか、選ばされたのか。興味のあるトピックだけど、ここはゼミ同級生のグラフィティの研究に譲りたい。

展覧会制作の分野で目立った革新者にはセス・シーゲローブとハラルド・ゼーマンがおり、2人はそれぞれもっとも有名な2つのコンセプチュアル・アートの定義を1つは狭く限定し、もう一方は拡張して見せた。(P.198)

一般的に、アメリカでコンセプチュアル・アート発祥の展覧会とされているのが、ニューヨーク画商のセス・シーゲローブによる「1969年1月5−31日」展である。アートを従来のギャラリーの文脈から切り離し、展覧会を本というカタログにした。

カタログに添付された紙にシーゲローブはこう書き記した。
「展覧会はカタログ(で伝達されている観念)で成立している。(作品の)物理的な存在はカタログを補完するものである」。(P.199)

もう一人の革新者、ベルン美術館のキュレーター、ハラルド・ゼーマンによる「態度が形態になるとき:作品ー概念ー過程ー情況ー情報」展、1969年3月22日から4月27日にかけて開催。

モットー
「頭のなかで生きろ」
序文
「本展覧会に出ているアーティストたちはオブジェ制作者とはまったく言えない。 反対に、オブジェからの自由を希求し、それによって、オブジェの意味次元を深化させ、 オブジェを超えた次元にある意味を明らかにしようとしている。 アートの過程そのものが見える状態を維持することを望んでいる。」

こちらが広い定義。ゼーマンは、コンセピュチュアル・アート、アース・アート、反形象、アルテ・ポーヴェラ。これらをまとめたアートを結集させようとしていた。

形式無視の精神を押し出すべきだと考えた。これら二つの展覧会こそが、モダニズムに対する弔鐘ということか。

「質は、「作家が用いるオブジェー用いたとしての話だがーではなく、作家の思考のなかにこそあることをわれわれは知っている。 これからのコンピュータと瞬時の移動の時代、絵画や彫刻といったものはあまりにも非現実的になる。 その認識が始まった。脱オブジェ・アートの前提として、アートの観念が事物や視覚的な経験を超越して、アートの生真面目な「調査研究」という領域まで広がったと言える。 つまり、「アート」という概念の本質を求めて哲学にも似た探求が行われ、アーティストの作業手順には作品の構想作りが含まれているだけでなく、従来なら批評家がやってきた仕事も加わってくる」。(P.207)

アートが視覚から頭脳・知能にシフトした。

こうした動き、コンセプチュアル・アートが1966年からとすると、3年を経過した1969年に展覧会として構成されていく。1970年の言語ベースの展覧会、同年9月には、ジョン・バルデサーリの「ソフトウェア」展の一環として、《火葬プロジェクト》を展示し、自身の売れなかった絵画を焼却した。これは、脱物質化のセレモニーだったのかもしれない。

意識の覚醒を促す体験というよりは、訳が分からなかったとはいえ、娯楽だったのではないだろうか。 (P.209)
現代人はおもにテレビを通じて世界を知るのだから、テレビという媒体を探求し解明するのはアーティストの役割だ、とも。 (P.213)
写真を使うことでコンセプチュアル・アートが生んだ最大の効用は、自明のことを表明するのではなく、問いを発する機能を写真に与えたことだった。(P.339)

アーティストとはメディアを探求する存在なんだと理解した。

僕のキャリアとしては、仕組み作りとか、メディア、システムを使えるようにすることだった。キャリアの前半は、人については無頓着だった。こうした視点というのは新鮮に感じた。

1972年のドクメンタVから、国際展としての色合いが濃くなり、また、芸術監督をその都度任命されることとなり、「態度が形態になるとき」展で注目されていたハラルド・ゼーマンが務めた。

現実は「芸術的、非芸術的を問わず、全イメージの総和である」と定義されていた。 この野心的なプロジェクトを実現するため、ハラルド・ゼーマンと同僚のキュレーターたちは「分類の公式見解」なるものを作り、それを軸にしてサブテーマを探求していった。(P.250)

展覧会は赤字になり、カッセル市から告訴された。参加したアーティストからも批判があり、参加を辞退するアーティストもあった。展覧会によってコンセプトを作り上げるという事、初期の頃の混乱があったのだろうか。このドクメンタVは、その後のアートの世界に多大な影響を与えたことは間違いのないこと。

1969年には「アーティストの内的様相がこれほど直接的にアート作品に転換されたことは、今まで一度もない」と熱弁を振るったゼーマンが、1972年にはこう宣言した。 アーティストの活動は「別の世界、美しい幻影の世界、夢の世界、そして中間の世界」からやってくるのだ、と。 現代美術は現代世界の不可分の一部でも、またその決定的な要素でもなく、まったくかけ離れたものだ、というのか。(P.250)

ルーシー・リパードのSix Years。上記のゼーマンの言葉は、既に自身の想定を超えたものを指していたのだろうか。展覧会によって作り上げられたコンセプチュアル・アートのイメージだろうか。

ルーシー・リパードが1973年刊行の自著『6年間ー美術品の脱物質化』に書いた結語だろう。「1969年には実際、誰も、新奇なものへの欲求にかられた大衆でさえも、過去の事態、あるいは自分では一度も知覚していない事態に言及している複写紙1枚に、大金はおろか一銭の金だって払おうとはしなかった。 3年後、ここアメリカでもヨーロッパでも、主要なコンセプチュアル・アーティストたちは相当の価格で作品を売っていた。 世界有数の特権的な画廊を代理人にしてもいた(驚いたことに、そうした画廊で展覧会を開いてもいた)」。(P.253)

商業的な成功、つまりマーケット的な評価を獲得した。アートと市場は絡み合っていたわけである。ルーシー・リパードは、コンセプチュアル・アートがほかの社会的、学問的な分野に向けて壁を破りきれなかったことを嘆いた。 1982年にダグラス・ヒュプラーがコンセプチュアル・アーティストは体制批判をしたわけではなかったと表明している。

1973年までにヴィクター・バーギンは、「純粋な」コンセプチュアル・アートはフォルマリズムの断末魔だったと考えるようになった。 いわく「アートの社会における作品や言葉を通じたやりとりは、それ自身の歴史の内部でも変則的なものになり、それにつれて自己埋没していった。 そして「アートのためのアート」なる姿勢がまかり通るようになったわけだが、そのごく最近の実例は理論中心のアートの散漫な右往左往ぶりである」。(P.254)

1971年、セス・シーゲローブが展覧会づくりをやめた。


コンセプトから体験へ

同時代を反映するかのような活動、アーティストが、それぞれの思いを持って作品を作ってきた。キュレーターが、展覧会を作品として提示するようにもなり、様々なコンセプトが提示された。まるで、熱が覚めたかのようにも見えるけれど、90年代に入ると、コンセプチュアル・アートの変容が起こる。概念の提示から、自己内省になった。

抽象から固有へ、一般から自伝へ。この移行はここ10年間、コンセプチュアル・アートを標榜して制作された多くの作品に共通している。 しばしば取り上げられたものは自己同一性の問題であり、それも「それはなにか」よりも「私は誰か」という問いかけがますます増えてきた。 1970年代以来とくに女性たちの作品が、批判的で非表現主義的だったアートの領域に、告白的で自伝的な物語をもち込んだ。 マーサ・ロスラーからジョジーナ・スターまで、カメラを逆転してみずからに向け、映像を見る側に突きつけてきたのは、誰よりも女性たちだった。(P.340)

ここでのここ10年というのは、80年代から90年代初頭のことを指していると推測する。70年代のヴェトナム戦争に続き、89年のベルリンの壁崩壊、91年のソ連の崩壊そして東西冷戦の終結という時代の動きがあった。

われわれはみんな、自由人のはずだ。が、そこでだ。ブランド名つきの商品を買えば、広告と販売活動の意のままに、われわれは命名、捕獲、いわんや所有までされる。(P.345)

アニエス・ベーが作ったフェリックス・ゴンザレス=トーレスによる《誰も私を所有していない》 。これがアートになるのか?、アーティストが作ったからアートなのか。一回目に読んだときは、その字面のことしか捉えられなかった。

ブランドのロゴ入りの服やカバン、アクセサリーを身に着ければ、私を形成することができるのか。消費社会に対する皮肉以上の意味がある。アイデンティティに関する危うさ。ここでも『スペクタクルの社会』が思い起こされる。最早、企業の提供するモノ・サービス無しでは、自己を表現できなくなったのか。ならば、いまのSNS、スマホの時代はどうか。一番の象徴でもあるファッション業界、ハイもファストも合わせて自由に選ぶということだが、果たして選択ということでアイデンティティは確保できるのだろうか。そもそもアイデンティティとは何だろうか。

ギャヴィン・タークのプレートの作品、限定100個作られて、販売された。修了制作として制作された作品、展示室を空っぽにして立派なプレートのみを掲げた。彼は単位を得ることはかなわなかったが、ギャラリーがすぐさま契約した次第。


情況的な要素を抜きにしてはなんの意味も意義もないこの手の作品は、いったん市場に認知されたらあとが続かない。 「ラディカル・シック(過激で洒落た感覚)」の記念品になり下がるだけだ、と穿った見方をする向きもいるだろう。だが逆に、こうも言える。 レディメイド やコンセプチュアル派のドキュメンテーションが1990年代までに獲得した地位を、風刺をきかせて揶揄すること。 この作品の目的は、それだけだったのだ、と。(P.380-381)

ここにきて、コンセプチュアル・アートの参照が始まったと考えられるか。1980年代にも参照すべき作品は多くあると思われるが、『コンセプチュアル・アート』では、あまり取り上げていない。


アーニオ・ガラッチオの氷の彫刻《強度と表面》は、作品を実際に見なければ意味がなかった。脱物質化が継続しているが、オブジェを見ることが必要だった。

4メートルの高さがある30トンの氷、その上に岩塩の塊を置き、それがゆっくりと氷の中をおりていく。日中、氷が溶けて、夜中に再凍結し、氷の塊の表情が変化していく。これに8週間かけた。

氷の彫刻としては、ギュラ・コンコリーの《1956年の記念碑》(1968年)とポール・コスの《融ける氷の音》(1970年)という作品があり、この作品は、それらの模倣なのか。氷を提示し、変容を見せるというのは、他にも作品があった。

コンコリーの作品は赤い接着剤を混ぜられた赤い丸い氷塊であり、コスの作品は大きな氷のブロックにマイクが向けられていた。赤い氷塊は、溶けると赤い血だまりのようなものを出現させ、大きなブロックに向けられたマイクは、氷の融ける音を伝えようとしていた。

既に述べたが、ガラッチオの作品は実際に見なければ意味がない作品。 ここで、オブジェ、脱物質化と二つの言葉を使い分けている。もちろん、脱物質化は、こうである。といった記載は見当たらない。ここでの物質は何を指しているのか。絵画、彫刻といった美術品のことだろうと解釈しているけれど、それだけではないような気がする。あるいは、こういう解釈。冒頭で引用したオブジェクト(客体、物体)がさかのぼってサブジェクト(主体)に言及するということに接続する。

概念そのものより、感覚的な経験のほうが、はるかに重要だったのである。

1960年代のコンセプチュアル・アートは形式と内容の偽りの二分化に依拠していたが、もはや今のアーティストはそんなものは認めない、と。(P.382)

概念だけでなく、経験、体験することが、はるかに重要であった。

ポピュラー文化との同盟関係をとおして、また他方では、オブジェや場所の位置づけや、社会関係を考察するものとして、コンセプチュアル・アートは再活性化された。(P.384)

1980年代のネオ=コンセプチュアル・アートの台頭は、概念から経験へとシフトしてきた。コンセプチュアル・アートの最初の回顧展が1989年パリで開かれた 。ハラルド・ゼーマンの展覧会「ツァイトロス(無時間)」。批評ではなく省察のためのアートだった。

アートは他者の経験を眺めるだけでなく、経験を共有することでもある。

1960年代のコンセプチュアル・アーティストのパラダイムは思想家だったかもしれないが、90年代の彼らのパラダイムはリサーチャー、研究者へと変化した。(P.415)

リサーチャー、2月に見た。

今日のコンセプチュアル・アートのもっとも重要な側面は事物や空間にあるのではなく、共同性、またコミュニケーションと人々の行動様式を重視する点にあるということになる。(P.416)

95年の二コラ・ブリオーの関係性の美学、みんなが参加すること。『コンセプチュアル・アート』には、この記載は出てこないけれど、ティラワニについては、結構な紙面を使っている。

ティラヴァニジャが作った食べ物は、本物かどうかはともかく、タイ料理で、これは文化的な雑種形成を意識したものだ。 仏教の僧侶のような放浪型の彼の生き方は重要である。 彼は重要な影響を受けたものとして、上を歩くことのできるアンドレの彫刻、ビュランとアシャーによるギャラリー体制の脱構築の方法、そしてゴンザレス=トーレスの事物に対する姿勢をあげている。(P.419)

美術館の外、社会的な空間でなにかを行う。そうした行為への衝動をかき立てたことこそ、コンセプチュアル・アートの重要な点ではないだろうか。 美術館そのものに与えた影響よりも、そのほうが大きいかもしれない。 まわりにある生活と相互作用するものとしての公共彫刻。その再検討が行われたと見るべき。美術館の役割、美術館の中にあるからこそアートとして認められるのだろうか。そうではない。ということを提示したかったのだろう。

ドクメンタ、ミュンスターなどで、先駆的にアートと日常生活についての接続性について経験してきた。今日では、これらを参照して芸術祭として日本の各地でも開催されている。そうしたアートの使われ方については注意が必要だと思う。ドクメンタ、ミュンスターでも、様々なことがあったのだから。(ここも新入生で研究対象にしようとしている人が居るので、そちらの研究結果を待ちたいと思う。)

コンセプチュアル・アートが残した遺産は歴史に残る様式ではなく、ものごとを問い詰めるという根深くしみこんだ習性である。 主体者、読者、また見る人が彼自身、彼女自身になるのは、問いかける行為においてである。 それがあってはじめて、たぶん、はたして自分の答えがイエスなのかノーなのか、どちらかに決めることができるのだ。 しかも、現実の、日常世界のなかでの質問へと。 (P.424)



「新しいものの衝撃」を伝えることへ向かう衝動




いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。