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川上喜朗『晦の瞳』@LIGHT HOUSE GALLERY 鑑賞メモ

晦 つごもり

新月のことだという。僕は晦日(みそか)のことだと思っていた。

川上喜朗の描く瞳は黒一色に塗りつぶされている。白い肌とコントラストが生まれ、無表情に見せながら、なんとも表情豊かになるのは、その黒に引き込まれるからかもしれない。

2020年12月の新宿眼科画廊の展覧会で初めて見た。

Twitterに情報が流れてきた両国のLIGHT HOUSE GALLERYの展覧会、初日で完売したとあった。期間中は展示が続くので、日程をやりくりして見に行く。

新宿の『かげごと』にしても、両国の『晦の瞳』にしても、闇を表す言葉だが、どちらも光を意識している。何かによって遮られた光。前回の展覧会では映像作品も提示されていた。壁一面に提示された絵コンテを思わせる絵など、より川上の世界観を表していたように思う。かげという隠された光という言葉もあってか、描き出されたキャラクターに儚さがあり、それがモチーフを強化していた。


今回の両国の提示では、幾分明るさが出ていたように見えた。けれども、作家の奥底から染み出してくるような、そうした声にならないようなメッセージが主張してくる。静けさがあるからこそ、訴えかけてくるような。

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何点か気になる作品があったものの完売であり、それはどうしようもない。作品集とポストカードを手に入れてヨシとする。他のコレクターは、どのような点を注目して買ったのだろうか。


キャラクターアートの研究を行っている。マーケット的な観点と批評的な観点から見ていく必要があると考えている。今、キャラクターアートが熱い。データは持っていないけれど国内だけのセールスではなく、海外からも引き合いがあるらしい。

クリスティーズ日本法人の社長は、「アニメ風の絵を描く~」と肯定的ではない意見を述べている。続けて批評的な観点と指摘しているが、現代アートの学術的な批評というのは、日本では、ほぼ無いのではないだろうか。


キャラクターアートについて、様々な関連性を探っているが、漫画やアニメとの接続もあるはず。映像はネットとの親和性が高いが、この展覧会では物質的な絵画として現前している。川上は、ネットで気軽に彼のモチーフを流通させていく事も厭わない。ネットでのリツィートで拡散していくイメージと、リアルでの様々な関係者と作り上げる展覧会での提示と鑑賞体験とが交差するようなイメージ。

絵師と画家を往来しているのではないだろうか。

絵師にヒントがありそう。イラストレーターと画家の境界を探るということだろうか。絵師、江戸時代の浮世絵師を彷彿とさせるが、1990年代から現代でも絵師という言葉がでてきた。好きを描くのが絵師、ネットの伸長もあり、そうした絵師とファンとのコミュニティを形成している。あるキャラクターというよりも、作家が提示する世界と捉えてもいいのかもしれない。


キャラクターの表情、様々な仕草、そうした画面を見ていて音楽が頭の中を流れてくる。そんな瞬間がある。音楽って直接的に感情に働きかけることができる芸術という。視覚刺激から音楽が鳴るのは、そうした感情の変化があるからかもしれない。恐らくキャラクターによってそうした刺激を受けるのは、ある程度の人生経験を積んだ世代、若い世代と多層性の支持を見せているように感じる。

娘の希望により"歌ってみた"動画を作り、YouTubeで公開している。将来的には、Pとしてもデビューしたいという。今は作詞と作曲をMacとiPadを駆使して試行錯誤している。ボカロが歌う歌に絵師がイラストをつける。詩の物語性から始まるイラスト、そうしたことが逆転することもあるという。

別の絵師的な展覧会を見に行ったが、その鑑賞体験から、コンテンポラリーアートのルールとも絵画的な感覚とも別の次元で創作に打ち込んでいると感じた。こうしたところに清々しさを感じるが、それは僕が勝手に考えている事、本人に確認したら、違うよ。なんて言われるかもしれない。

川上の絵師と画家を越境するような姿が興味深い。

いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。