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小笠原正仁『著作権入門ノート「アートと法」表現の自由・自主規制・キャラクター第二版』読書メモ

著作権、著作物と著作権者、法律での言葉。実際のところどうなのか。面倒なトピックではあるけれど、素通りすることもできない。本書は大阪芸術大学の「法と芸術」講義のために書かれた。法律を学ぶためのテキストだが芸術大学の学部生に向けて、とても簡易に本質的なところを解説していると思う。法律の専門家ではなく、表現者として権利とどう向き合っていくのか。一読しておくべきだと思った。

 ただ、私には、芸術表現をめざす人々はみな創造者ですから、私のアドバイスどころか、法律さえも色あせさせるスピードで、時代を疾走していってくれるだろうという期待があります。
 そもそも、法律や社会制度はそのようなロードランナーの後を追いかけるのが精一杯です。皆さん方の軽やかな飛翔が社会を前進させていくのです。(P.220)

Amazon.co.jp での正式な取り扱いは無いみたい。定価は2500円、2020年10月の第二版があるので、こちらを書店などで注文するのがいいと思う。

権利や法律の仕組みそのものに問いかけをする作品もある。


ビデオ制作会社と映像制作を委託した会社、著作権に関わる契約条項のずれから、元々の仕事を紹介した広告代理店を使った解決を行う。いわゆる圧力、こうした事例で法律以外の解決の仕方について物語が展開していく。法律のことを説明する書籍にも関わらず、こうしたありがちな物語を見せたイントロダクションは面白い。法律の側に立つ人、創作の側に立つ人との橋渡し的な発想だと思う。

法律学が本当にむずかしいのは、それらの規定を実際の現場に適用しなければならないということです。(P.21)

論理学、解釈学、哲学へと繋がる。それらは普遍的なものではなくて、時代に左右される相対性を持つという。

著作物の定義。著作権が適用される要件について解説が続く。

工業製品のデザインの保護は、意匠法による。ただし、意匠法の場合は登録という手続きが必要になり、著作権法は、登録という手続きは必要としない。

欧米では著作物として扱われる椅子は、日本では著作物として定義されていない。ただし、最高裁で創作性を認める判決も出ている。

僕は芸術的な創作はしてこなかったが、著作権とは深い関係がある。そして、僕自身は著作物を多く残してきた。それはコンピュータープログラムである。

かつて、日本で、コンピュータ・ソフトウェアが特許庁(特許法)と文化庁(著作権法)のどちらの管轄になるかで駆け引きがあったとき、コンピュータ先進国アメリカがそのゆくえに重大な関心を寄せているという報道がありました。(P.31)

ただ、自分の名前をつけるというよりは、その時勤務していた会社の名前をCopyrightとして入れていた。


定義が確認できたら例を挙げる。これが共通認識を得るには分かりやすい。

恐らくあまり人を寄せ付けない法律という難解さの中に見られるウィットな感覚、それが、この本の魅力だと思う。

言語にできないから写真や映像・絵画・立体という手法を用いるということも一理ありますが、選択できる表現方法は無限だという認識も大切かと思います。(P.37)

言葉による表現であっても、タイトル、人の名前、広告コピー、新聞記事の表題、標語などは、著作性の判断は個別に議論される。読売新聞のオンライン版の記事タイトル、著作権は認められなくても、創作の努力は認めるなどの判例がでた。確かGoogle ニュースでサービスが開始した時の騒動じゃないだろうか。

映画や小説のタイトルにも著作権は認められない。だから、同じ名前の歌や、小説や、映画がある。そして学術定義も著作権の対象にはならない。

法はあくまでも権利関係の枠組みであって、芸術性については、芸術家としての表現姿勢を貫くところに価値を見いだされるべきだと思います。(P.44)


著作権に審美眼は対象ではなく、創作されたという事実がポイントなのでしょう。

Tシャツに自分だけのオリジナルな絵を描いたりしている人はいませんか。その場合、制作年と署名を入れておいてください。それが、著作権の主張になります。(P.46)


こうした記載がすばらしい。

著作物にしろ、差別にしろ、とりあえず厄介なことを避けるというのは、クリエーターの目ざす道ではありません。向き合うことによって、さらに深まる真実こそが目ざすべきものではないでしょうか。(P.49)



キャラクターの著作権

個人的なノートの端に描いた絵にも著作権は発生する。しかしながら、著作権では全く同じように複製することを抑止し、その権利を守るためのもの。小説に登場するキャラクターの名前には著作権は存在しない。マンガのキャラクターに至ってもそれが適用される。

通常、漫画のキャラクターを描いたとき、それがどの話のどのコマの複製なのかというのが論点になる。明らかにキャラクターが分かっていたとしても、コピーでも取らない限りは著作権法での著作物と認められないということ。そうした時には判例による判断が必要になってくる。

「サザエさんバス事件」の判決では、漫画とキャラクターは不可分であって、キャラクターの無断利用は、原作漫画の複製権の侵害であり、その侵害について原作の部分を特定する必要はないということでした。(P.61)

キャラクターを無断で使われて、それが営業のためとなると、著作権ではなく商標権などの経済性が絡む法律で議論するべきではないかとある。法学を学ぶと、そうしたことの理屈が分かるが、現実世界、日常生活から乖離してしまうことになる。

キャラクターが原作とは別個に独立して著作物として成立するかどうかということは意見が分れるということなんですが、通説では、著作物性を認めないということです(P.70)

キャラクターについては次のnoteに考察を書いたが、今読み返してみると、ほんとヒドイ。何を書きたかったのか。このnoteの続きは修士論文で仕上げた。書き直しというよりも、修論に基づき執筆を計画している書籍で続きを考察したい。

著作権と商標権がぶつかった時の解説もある。「ポパイマフラー事件」の例を出し、会話形式で没入しやすいように解説されている。

タイトル、キャラクターが著作権では保護されないために、商標権や意匠権によって保護する。こうした権利と実態との乖離、関係性について村上隆がやっていた加勢大周プロジェクトを思い出した。

昔、加勢大周というタレントがあって、事務所移籍の際に、"加勢大周"は商標登録されていると主張した事務所と対立した。(実際には商標登録されていなかった)加勢大周が、その人気が確立している芸名を使えないという状況が起こり、裁判で争われた。

artscape に村上自身がその当時を語ったテキストがあった。

そうした当時の当事者(?)へのインタビュー記事が最近作られたみたい。

村上隆の加勢大周プロジェクトについては、アイデンティティの切り替えからのアイデアであり、4人の加勢大周をデビューさせた。上記のartscapeのテキストに顛末が記載されている。『Art Works: Money』に、このプロジェクトは名前からの錬金術として紹介されている。皮肉なことにルイ・ヴィトンの名前も併記されている。

Murakami shows that a name can earn fame and fortune in the absence of its original bearer. Louis Vuitton is dead, but people still buy 'his' luggage. As a painter, Murakami himself gets credit for his paintings, even when they are made by assistants.(P.63)


アップルのiPhoneがテレビCMで、アイフォンではなくアイフォーンと言っているのは、インターホン国内シェアトップ企業の名前がアイホンとして商標登録されているから。

法による支配、法律とは関係ないということではなく、権利とは何か、どのように統治されているのかを知ることは損ではないと思う。


著作権を証明する際に、記名されていることで、その人を著作者と推定する。

挙証責任(立証することの責任)を相手に求めることができる。

この証明するということの困難さを教室に忘れた教科書が、他の人に使われているというシチュエーションを例に取り、説明している。例え記名していたとしても所有権という観点から、とてもややこしい事態が発生することを示唆している。

民法では、動産(この場合は教科書)を占有している人(所持している人)が所有権をもっていると考えるようになっています。今、現に所持しているということで、所有権ももっているだろうと考えるわけです。(P89)

NFTのリサーチをしているが、所有権について考えていた。デジタル作品に対する所有権をどのように認定したらよいのか。



機械学習は大量の学習データを用意して、そのデータを使って訓練をする。そうした機械学習が学習するデータについて著作権に関する説明があった。

④著作権に表現された思想または感情の享受を目的としない利用(30条の4)
電子計算機の技術開発や情報処理の過程で自動的・機械的に行なわれる著作物の利用を許容したものです。つまり人が著作物を鑑賞するという機会がないようなデータとしての利用の仕方ですから、AI同士が会話するようなことも想定されていると少しロマンがあるかもです。(PP.114-115)

これは著作権の話であり、個人情報保護関連の法律は別に吟味する必要がありそうだと思った。プライバシーの問題。

表現の自由と規制

表現の自由は日本国憲法の21条にある。国家権力=行政が行う検閲に対する条文。憲法が定めるところ、自主規制はこれにはあたらない。

権利について、平易な言葉から始まる数ページの文章は字数が少ないながらも力があり、権利が保障されているということはどういうことなのかを解説している。


表現の自由を保障する一般的な判断基準がある。

「公共の福祉」による表現の自由の制約を認める判決です。

詳しくは本書を読んで欲しい。判例を挙げつつ、それに対する著者の思いが伝わってくる。それは冒頭に引用した芸術表現と法律に関するコメントからも見て取れる。

わいせつ物頒布と表現についても判例を引き、解説されている。そうした背景は、表現と規制と権利との微妙な関係性を今後の作品鑑賞の中で感じることになるだろうか。


日本では裁判そのものを忌避する国民感情の方がまだまだ根強く残っています。(P.180)

これは別の本で読んだ話だけど、アメリカに転勤した日本人家族、隣のアメリカ人家族と仲良くなり、バーベキューなども一緒に行い、家族での交流があった。とある日、誤ってアメリカ人家庭の何かを過失により壊してしまった。それを受けて訴えられて裁判になった。気まずそうにしている日本人家族、アメリカ人家族は気にしていない様子、裁判をしないと保険が下りないからと説明をされたそう。


放送における表現の自由と自主規制について法的枠組みから取り上げる。

日本の自主規制のあり方の特徴は、自主規制が法律によって規定されていることです。(P.198)

このことを余計なおせっかいとしている。明治以降の近代化から続く日本の課題であるとしている。余計なお世話ということだ。

最後の章(その後はQ&Aと条文の掲載なので)の最後に日本の律令制度が紹介されている。権力階層のそれぞれに法があるが、それは公にされない。それぞれの階層に法律を作らせる。つまり幕府の法はあるが、それを公開することはしない。各藩に法律を作らせる。村についても同様、自分達が法律を作り、上位層に提示する。支配側の都合がよくなるまですり合わせが続けられる。

形式上、下からの自主的な服従ですが、実質上は上からの支配です。(P.206)

自分達が出してきた法は、権力者によっていつでもひっくり返すことができた。幕府が決めた法ではなく、自分達で決めた法であり、お上の意向の方が優先される。こうしたことを権威主義的法支配のからくりであると説明している。

コラムであるが、とても重要なことを書いている。

現在の自主規制では、江戸時代のように、「お上の意向」を忖度しながら、自分たちの行動を決定するということを否定できません。(PP.207-208)

自律とは何か、権利とは、そうしたものに真摯に向き合っていた。もちろん表現の自由によってどのような表現も許されるわけではない。そうしたことについても触れている。

著作権、憲法、表現の自由、プライバシー、検閲、そうしたものに対して現在地をきちんと把握できる。手軽に学べる一冊だと思う。2020年10月に更新されたことも大きい。法律の改正に対応しているから。






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