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『動いている庭』 読書メモ

ジル・クレマンの動いている庭。とても今日的な内容の本だと思う。

荒地、それは人間の敗北あるいは恥の場所。土地を人間が放棄したら、そこに植物が支配を強めていく。至極当たり前ではある。

本を読み進める中で、経済学を勉強していたときのバッズ(ゴミとか大気汚染とか)についての講義を思い出した。経済学(100年くらい前だろうか)では、バッズは環境にいくらでも廃棄できたし、資源はいくらでも環境から吸い上げることができた。(もちろん、最新の経済学では、こんなことは教えていない。)

現代アートの研究を始めたときに、無条件で経済学的な観念、ちょっと違うかな、資本主義を攻撃対象にするかのような論争を多く目にした。確かに、金が金を生み出すシステムは、人の手に余るかのような現状を生み出した。とはいえ、そうした大資本によって成しえた福利厚生もあるだろう。寿命の延長とか、病気の克服とか。(それが翻って環境に負荷をかけているという指摘もあるだろうけど。)


先日訪問した福岡アジア美術館、そこの展示にあったミャンマーの製本工場を撮影した映像作品。これを見ていて資本主義に関する論争にひとつの考えが加わった。

日本人はビジネスを起こすとき、自分がそのビジネスの知見を得ようとする。レストランのビジネスを始めるならば、自分自身が調理技術を身に着けるといった具合。アメリカの場合はビジネスのアイデアを思いついたときは、そうしたスキルを持った人と手を組めばいいと考える。日本では、自分の手を動かすことが重視されていると思う。

ティーモーナインの映像作品《ページをめくる間に》(2011年)

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自分の手を動かさず、ビジネスのみを考えた場合、その労働を移転することができる。それが、ティーモーナインの作品だろう。ミャンマーの製本工場を撮影した作品は、他に日々の糧を得る選択肢が無く、朝から晩までの単純な製本の作業を行う。女工達は映画の話、恋愛の話などをしながら、単純作業をこなしていく。監督役の男が作業をするように指示を飛ばすが、そんなことはお構いなしにお茶を飲み、作業を行う。そこに書かれている文字の意味も分からず、ページを繰り、オリホンを行い、製本の工程に回されいく書籍(恐らく英字の教科書)の表紙が躍る。瞬間、これが資本主義に伴う問題の姿と思い至る。確かに、この仕事を作った。日々の糧を得る方法を提供した。そうしたビジネスを作るというのが資本主義の基本的な機能のひとつであることは間違いない。ただ、この労働というのは資本家側の都合によって世界中のどこへでも移転することができる。繊維産業は開国後の日本を支えたが、今や国内産業は衰退の道を辿っている。労働集約産業は、こうして変化することが組み込まれているが、そこにある労働者の権利、働き甲斐、疎外の問題を可視化している、そんな作品だった。

J.S.ミルの小作人と共に労働をすることの喜びを見出す事だろうか。社会のひずみを見える形にするのが、アーティストの役目、答えを出すわけではない。この作品を見て、そうしたことを考えた。

今のコロナ禍にあって世界に広がったサプライチェーンが分断されたとき、結局は自給自足がいいのではないかという議論も出てきた。


植物が土地を獲得する様子を見る時、痩せた土地に進出する植物、そうした植物が環境を整えた後に繁茂する植物、そうして植物に覆われた土地を荒地として片付けるというのは、近代の工業国家のラベリングのようである。農地として原生林を開拓した。農地あたりの収穫量が、技術革新により向上し、それまでの広大な農地を必要としなくなった。開拓された土地は植物の侵食により、荒地に戻る。フランスにとっては、これが恥になるという。

西洋的な自然支配の考え方から見れば、納得する部分が多い。

外来種に対しても、人、機械によって運搬が行われ、その土地に定着したのであれば、それは植物の土地奪還の自然の姿だという。時間をとどめようとする心情だろうか。環境は変化していく。

人だけが特別扱いする理由は何だろうか。

航空機、大型タンカー、そうしたものが、数千年はかかったであろう植生の侵略を一気に広げることに加担したからだろうか。日本の原生種である葛が外来種として世界に広まり、悩ませている。これが、稲ならばどうか。

例えばグレイハウンドの祖先のジャッカルは人の手によって品種改良という遺伝子操作が行われた。猟犬として益がでるように交配が重ねられて今の姿になった。元々はエジプトの神話でアヌビスのモデルになった。人の手による環境への介入、それは考えた方の転換が必要なのかもしれない。

人の感覚が、そうした基準を創り出すのだろうか。価値観と捉えてもいいのかもしれない。外部不経済が可視化されたのが、このコロナ禍なのかもしれない。この騒動に意味を見出すことは詮無きことだと思えるけれど。

9.11は現実が映画を越えてしまった。シナリオをエスカレートさせたとしても、映像効果を深化させたとしても、それは戻ることは無いように思う。2020年は人の社会の課題を可視化させることになり、これは現代アートに少なくない影響を与えた。2020年のPower 100の1位はBLMになった。


自然にたいするわたしたちの関係は根本的に変わってしまう。地球の乗客としての人類は、希少で脆いものとなった生命の保護者という役割、つまり庭師の役割に立ち戻ることになる。(P.150)

最近、地球温暖化に対する取り組みに希望を持っている。きっと、地球温暖化も克服できるだろうと思っている。



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