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冷凍庫と、仕舞いきれない想いの残骸。

市川望美です。
忙しさにかまけ、そしてちょっぴりスランプで筆が進みませんでしたが、お久しぶりで戻ってきました。書きたいことは沢山あるんだけど、なんかアウトプットできないことって定期的にあるんですよね。

さて。今日は、冷凍庫の奥にしまい込まれた、いつ冷凍したのかも分からない物体についてお話したいなと思います。(もちろん比喩です)

冷凍庫の奥にしまい込まれた、いつ冷凍したのかも分からない物体とは。


『冷凍庫の奥にしまい込まれた、いつ冷凍したのかも分からない物体』とは何の比喩なのかというと、「上手く処理しきれない生々しい感情」のようなもので、これは数年前の私が抱えていたリアルな感情であり、その感情の扱い方を表現した比喩です。

その感情は、最初はちょっとした違和感だったはずなのに、その違和感を拭いさることができず、とても無視できないほど大きくなってしまいました。自分自身でも、「これはもう違和感で済むレベル」ではなく、状況を変えないとどうにもならない、そのために大きな決断をしないといけないこともわかっていたけれど、周囲に与える影響を考えたり、コトを荒立てたり、大きくすることがストレスで、それらもろもろをひっくるめて対処する勇気が持てなかった。ずっとこのままでいいとは思っていないし、自分自身もそれは望んでいないけど、どうにも動き出せなかった。

かといって、この気持ちを持ち続けたままで暮らしていくのはしんどい・・・・だから、とりあえず自分を守るために、「その感情」を「氷漬けにして心の深い所においておく」というイメージを創りだしました。

「その感情」をそのままに自分の中に置いておくと、そこから私が腐ってしまうような気がしたから、腐らないように凍らせて仕舞いこんで置く。いつか、そこから取り出して対処できる日がくるまで。

この感情を無いことにはできないから捨てたりはしない。
決して忘れたりもしないけど、今は本当に、向き合うのは無理だから・・・・。


「長考」


氷漬けにされた「その感情」は、けっこうな長い時間を経てなんとか取り出され、解凍され、改めて咀嚼され、最終的には「離婚」という形で決着をつけましたが、「消化できない想いを凍らせてしまっておく」というイメージを持てたことはよかったなーと振り返って思います。

人生において、どうしても決断できないとき、決断できないことって、起こりうるからです。そこで腐らず、少しでも健やかに生き延びるためにはそういうやり方も必要だと思うのです。

今となっては、家族の形を新しい形にすることができてよかったと心底思えていますが、大事なものであればあるほど、決断が難しかった。だから冷凍庫に仕舞いこんだ。でも結局は問題の先送りであることは明らかで、そんな自分がふがいなくて、冷凍庫をあけては氷漬けにした「その感情」を取り出し、また冷凍庫に戻すという感じの日々もありましたが、ふと出会った「長考」という言葉にもまた救われるのです。

「長考」とは、将棋や囲碁でよく使われる言葉。言葉通り「次の手を打つまで長い時間をかけて考えること」の意味ですが、ぐずぐずしている自分に嫌気がさしたり、とにかく行動しなくてはと焦る気持ちが浮かんだときに、「そうだ、これは長考なんだ。この先の局面に大きな影響を与えることだからじっくり考えよう、今は長考に入ってるんだ・・・」と思うようにしていました。

「長考ったって、結局言い訳じゃん、逃げじゃん」と、思わないでもないし、「長考の良さ」を見つけたくて「将棋 長考」というような検索ワードで私を擁護してくれるネタを探したりもしたのですが、逆に将棋の世界には「長考に好手なし」という言葉があるということを知る・・・。

・・・そっか。と、ちょっぴりがっかりするのですが、それでも羽生名人が長考について話した内容が書かれている記事には大いに励まされました。

長く考えたからといって、いい手が指せるわけではない。むしろ、長く考えているのは迷っているということ。もがき、努力したすべての経験を土壌として「この手しかない」と直感でひらめくことがなく、ある程度の道のりまでは来ているのに、そこから先を決断しきれずにいるだけ。

でも、「長考に見切りをつけて決断し、選択ができる」ということは、自分の調子のバロメーターが上がっていることを示す、というようなことや、

将棋のプロに持ち時間が長く、長考することができるようになっているのは、それに耐え得るだけの力や漠然とした決断を受け入れるために必要な「覚悟」のための時間を与えられているということなのかもしれない。

プロ棋士・羽生善治が語る“直感の正体”。将棋で「長考に好手なし」と言われる理由とは(新R25記事より)

ということが書かれていて、自分は何もできてないのではなく、そこに向かうプロセスの中にいるんだ。決断し、選択ができる「調子」を待とう、「その時」まで覚悟の為の時間を過ごそう、と思えるようになり、思うようにいかない生活の中にあっても、どこか前向きな気持ちで、落ち着きをもって過ごすことができました。

心の冷凍庫に、仕舞い切れない想いの残骸はありませんか?


冷凍庫の奥にしまい込まれた、いつ冷凍したのかも分からない物体
とは、そんな風な、そのままでもち続けるのは嫌だけど、捨てることも難しいもの。
今とても消化できないけど、日々付き合わないといけないもの。
持ち続けていると腐ってしまうので、冷凍しないといけないようなもの。

断れずに持ち帰らされたものをとりあえず冷凍庫に仕舞いこむように、誰かから「持たされた」「押し付けられた」ものもあるかもしれない。

バッサリ捨ててしまえば済む話なのに、何らかの理由でできない。要らないものを持っている自分を認めたくないから、「保存している」状態にする。解凍して食べるわけではなく、「まだ」捨てていないだけなのに。

みなさんの心の冷凍庫にもそんなものはありますか?
仕舞いこむ前に誰かにおすそ分けしたり、一緒に食べたりできればいいのだけど、それができなくて、残骸のように冷凍しっぱなしの感情は、ないでしょうか?

「気にしないようにしよう」とか「もう終わったことだ」と、感情を冷ましてはみたものの、消えることなく冷凍庫に残り続けているものは、ないでしょうか。

長考の時なのかもしれないし、覚悟を決めるための時間を過ごしているのかもしれない。けど、もしかしたら、今が「その時」なのかもしれない。

そう思えたら、Polarisの学びの場が役に立つかもしれません。(急なPR^^)

自分の中にある「その感情」を見つけたり、その感情に翻弄されず、自分を守り、どんな時間を過ごしてきたのかを知ってみたり、「決断の時」に向かうためにどんなことをするのか、しないのか。自分が願う未来はどんなもので、根源的な自分らしさってどんなものなのか。そんなことを、5月からスタートする連続講座で扱っていきますので、なにか引っかかることがあれば、是非。

あと、こんな本も良いかもしれません。

自分を苦しめたり、悩ませたりしているものの「正体」が明らかになれば、そこから見えてくる道があるはずなのです。 進むべき道が見えてくれば、人はどんな苦境からでも、一歩を踏み出していくことができます。 もし今、あなたの中に重苦しい気持ちがあるのなら、その思いをなくしたいと願ってもむずかしいでしょう。「ないほうがいい」とわかっているのに持ち続けているのは、そもそも捨てられるものではないということですから。

「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本(南 直哉 著)

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Polarisの学び系事業部「自由七科」(じゆうしちか)のお知らせ


5/15からスタートする「オーセンティック・ライフキャリア」講座の主題である「オーセンティック (Authentic)」とは、正統、本物であるさま、信頼できる様子、という意味。ギリシャ語の「根源となる」が語源で、絵画や宝石などのモノに対して使うときは、「まがいものではない」という意味になるけれど、気持ちや人間に対して使うときは「ありのまま」「自分自身に正直である」といった意味あいとなります。

つまり、自分自身の中にある「根源的な自分らしさ」が「オーセンティシティ」であり、ありのままの自分を表現し、自分らしく生きることが、「オーセンティックである」ということになります。

外側にあるものでなく、自分の内側にあるもの。「価値観」「信念」「守りたいもの」「譲れないもの」のように、「自分を揺さぶり、動かすもの」の中に、「自分らしさ」は表現され、また、何気ない毎日の暮らしの中、小さな日常の選択の中にも、「自分らしさ」は表現され続けているはずだけど、その表現は時に難しい。

自分自身を表現するよりもまず役割を全うしなければと、自分らしさを押し殺したり、仮面をつけないといけないと思い込んでしまったり、いろいろ考えすぎて自分らしさを見失ってしまったり。

「自分らしく生きたい」と思っても、なかなかそう簡単にはいかないものかもしれないけど、それでもこの講座は、自分自身の過去の経験や、今の想いから、「根源的な自分らしさ」や「自分らしいものの見方」「自分らしい世界とのかかわり方」を見つけるためのステップを沢山織り込みました。

「ねばならない」という、外側にある価値観やプレッシャーに対抗するのではなく、自分の内側にある価値観を探求し、「オーセンティシィ=根源的な自分らしさ」を育むこと。その自分らしさを軸に、のびやかに、生き方やはたらき方を創っていくこと。


どこにいても、誰といても、何をしていても、自分らしさを表現できる感性と力を得ること。


それが「オーセンティック・ライフキャリア講座」の目的です。




この記事の元のような記事はこちら。私が参加している立教大学社会デザイン研究所の共同研究チームのnoteです。

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