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ESTPのデンジ 狂気と欲望

こんなアニメを待っていたのかもしれない

友達の勧めや、うどんのシーンをMAPPAのチャンネルから見た事で『チェンソーマン』を知った新規ユーザーです。
(その後マハって第一部読み切りって、2部まで行きました)

崇高な大義や夢?コンプラ、ポリコレ? クソ喰らえ!

そう言わんばかりの勢いでデンジがチェンソーマンとなって敵を切り刻んでいく姿が爽快で堪らなかった

社会的正義「~らしさ」に囚われず、俺がこうしたいんだ!という私利私欲全開で戦っていくデンジは正にダークヒーローだった。

辛い事がたくさんあるとは言え、主人公の中では随分(半ば狂気じみた)笑顔が印象に残るキャラクターである。

対比されがちな『鬼滅の刃』と『チェンソーマン』

個人の欲求と社会の利益

この2つの作品の作風、メッセージ性や主人公のあり方は他のユーザー達から「集団主義」と「個人主義」¹、女性的ヒーローと男性的ヒーロー²、利他と利己³という文脈で語られていた。

1:チェンソーマンと鬼滅の刃からモチベーションを考える
2:鬼滅の刃からチェンソーマンへ移る令和のヒーロー像
3:チェンソーマンには現代人の病が隠れている

『鬼滅の刃』では利他的な精神人との繋がりが丁寧に描かれていた。それを見た私自身感動したし、これらの作品が良いものである事には変わりないが、同時に何か違和感を感じた。

それがムカつく鬼を好き勝手にブッ殺す事なく、家族や妹、あるいは国家や社会の為にという崇高な戦う理由を携えて、先代達が磨き上げ来た型に常に敬意を払い、敵である鬼にすら慈悲を持って挑まなければいけない「ある種の息苦しさ」だとチェンソーマンを見て感じた。

新海誠三部作品の中で『天気の子』が私の琴線に触れたのも、おそらくそうした社会の抑圧に対した子供のせめてもの反抗という部分が描かれていたからだろう。

(作品の構成やメッセージ性なら『すずめの戸締り』や『君の名は』の方が私は良いと思う)

しかし、『天気の子』は結局、世界を犠牲にして一人の少女を取った。
社会」という中間構造がほとんど存在しない状態で、いきなり世界が変わった所、1個人の利益の追求によって大多数の人間が被害を被った所(ベンサム的に言うのであれば最大多数の最大幸福には至らなかった)はどうも納得が出来なかった。

そんな中で、『チェンソーマン』を知って、見て、感じた。

アニメの中で描かれていたデンジの行動は私利私欲、母性や性欲の追求がごちゃ混ぜになっていたが、それが社会の利益の方向性と一致している、厳密に言えば、彼の上司であるマキマさんが一致させたという点が特徴的だ。

デンジはあまり”誰かのために”みたいな意識を全面に出してこなくて、
個人の利益の追求が結果として誰かのためになったり、社会の平和のためになっているという感じがします。

チェンソーマンと鬼滅の刃からモチベーションを考える

個人の幸福追求と社会の利益の相反はよくある事で、それ故、利己的である事ある種の不道徳として扱われやすかった。

一方で、社会の利益追求、人類全体への貢献や最近ではSDGs、利他的精神美徳として扱われてやすかった。

その一方で人類の平等、格差の是正を目指した、ソ連を筆頭とした社会主義国の大半がどのような経過、末路を辿ったかを見れば、これらが1面だけを見て手放しに称賛されても良いものではない。

しかし、デンジが起こした1連の行動は個人の要求社会の利益(かなりマクロな視点で見れば)が合致している。

別にデンジは日本を救いたいだとか、復讐をしたい訳ではない、衣食住が保障されて、胸を揉んだり、キスしたいだけである

こんな理念が昔なら許されるなかったが、現代なら「社会のメリットになるならまあいんじゃね?」と許される可能性が高いのだ。

これは利己的に、ある程度好き勝手生きてもいい許しであり、条件だ。

炭治郎(ENFJ)とデンジ(ESTP)

デンジの行動と炭治郎も対比されやすい。大正と令和、数世代も時代背景も個人の性格や置かれた環境が違えばほとんど真逆になってもおかしくない。
ある記事では炭治郎についてこう書いていた。

肉体的な脆弱さが執拗に描写される一方で、炭治郎は、これまでの悩めるヒーローと違って、迷わない。義務だから、鬼だから、殺す。けれども、決して敵対者を踏みつけにはしない。鬼が人間だった頃の想いに寄り添って、死者を丁重に扱う。

鬼滅の刃とフェミニズム ~これからの「フェミニズム」を考える白熱座談会(#これフェミ)Vol.03~ 全文掲載

デンジはこの記事の描写とほとんど真逆に近い

肉体的脆弱さがほとんど描写されず、デンジはこれまでの悩めるヒーローと違って、迷わない。胸を揉むため、キスするため、衣食住が全てそろった生活を手に入れる目的に邪魔だから、殺す。夢バトルでは敵対者を踏みつけにし、ある時は仲間の鬱憤や憂さ晴らしのために最強の大会を開く。

神々しいまでの聖人清々しいまでのクズっぷりが見事に対比されている。

あるべき理想に向かって一直線に進む主人公そこにある現実で楽しくいろんなものに手を出す主人公、生育環境が違うとは言えここまで違うと同じ人間か疑問に思いたくなる。

チェンソーマンは鬼滅のアンチテーゼなのか?

ポチタと契約した事によって、悪魔と人間の中間の存在になって戦うデンジの姿は鬼滅の刃 無限列車編の煉獄さん達とは真逆になっている。

大ヒットした映画・無限列車編のハイライトでは、上弦の参・猗窩座(あかざ)が、炎柱の煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)に対して、「お前も鬼にならないか?」と誘惑する場面があります。人間であることを捨てて、鬼になったら、弱さを克服できる、と。しかし、煉獄はそれを断る。煉獄だけでなく、主人公の炭治郎も、鬼になる誘惑を何度も受ける。でも、拒否する。
弱さを肯定する。でも、「弱いままでいいんだよ」というメッセージの物語では決してない。弱さをありのままの事実として受け止めながら、強くなるように己を鍛える。心はどこまでも無限に強くなれる。こうしたメッセージがある。

鬼滅の刃とフェミニズム ~これからの「フェミニズム」を考える白熱座談会(#これフェミ)Vol.03~ 全文掲載

ここに書かれた記事を基にするなら、心はどこまでも強くなれるものという前提から、心を鍛える事で弱さの克服を狙おうとしている。

しかし、チェンソーマンは戦う際のメンタルに対して全く違うスタンスを取っている。

悪魔が恐れるデビルハンターはなあ…頭のネジがぶっ飛んでるヤツだ

『チェンソーマン3巻19話』岸辺

このチェンソーマンに登場する悪魔は、人間の恐怖から生まれた物で、その物に対する恐怖が強ければ強いほど悪魔も強くなる仕様になっている。

(例えば、恐怖を感じない野菜の悪魔は弱く、恐怖を感じる銃の悪魔や刃物の悪魔、暗闇の悪魔などは強くなる)

悪魔は現実世界の不安のメタファーであり、それに対抗するための策が頭のネジを飛ばす事である

チェンソーマンでは、登場人物達の精神は脆く描かれやすい。

戦線離脱の原因が負傷だけでなく、戦意喪失によるものも含まれているのは戦闘モノでもかなり珍しい事だ。

家族を守る事悪魔への復讐崇高な理念や理想を持って戦う登場人物はチェンソーマンでも多くいるが、その大半が悪魔との戦闘と自身のまともな感性によって精神的に追い詰められていく。

他者のために戦う立派な精神が自身の精神を更に犯していく、自分の為に戦っているデンジですら苦しむ事があるのだなら、相当なものだろう。

現実に立ち向かう為には、マトモでいる事は不利になる。

だから頭のネジを飛ばして、利己的な動機でも何でもいいから、恐怖や苦痛を塗り替えてしまった方が早い。

弱肉強食、だからこその希望と自由

チェンソーマンの戦闘はかなりシビアな部類である。登場人物が誰であろうとお構いなく死の危険に晒される。

悪魔にしろ、人間にしろどれだけ崇高な夢や利他的な動機で動いても、相手が強ければ容赦なく殺される

夢や戦う理由の立派さで勝負は決まらない、力量や知恵によって勝敗が決まるのが、チェンソーマンの特徴だ。

一見すると、血も涙もない話だ。だが、そこに1つの救いがある。

どんなに矮小でくだらない理由でも、個人が命を懸けてまで戦い、それで勝てるなら、その夢の存在が許される世界なのだ。

さながらAO入試と一般試験である。一般試験なら学校での素行がいかにクソでも、学歴を手に入れて女の子にモテたいお金を沢山稼ぎたいといったくだらない不純な動機でも、点数さえ良ければいいのだ。

経過や思想がどんなにクソでも、結果さえ残せば存在が許される世界は一見残酷だか、大層な夢を持たずとも戦う土俵に立てる希望がある。

だが、そんな弱肉強食の世界は当然いい事ばかりではない

裏を返せば、いつ自分が強い相手に一方的に殺されても文句は言えないのだ。尊い精神を持った仲間が犬死する可能性すらある。 

力だけが全ての世界観でどう生きるか?
そのヒントになるのがデンジの師匠の岸辺隊長である。

この隊長、全てのデビルハンターの中でもトップクラスの強さを誇る猛者で、デンジと相棒のパワーが悪魔の性質上、死んでも血を飲めば復活する事を利用して、真剣で何度も殺し合う事で訓練をしている。

この圧倒的な力を前にどのようにして立ち向かうか、デンジ達は策を巡らせて、奇襲やブラフの使い方を覚えていく。

力でダメなら、知恵を使う、生きる為に何でも使う強かさこそが弱肉強食の世界観で生きる上では必要なのだろう

型と悪魔

鬼滅の刃では呼吸と型を使う事によって鬼を倒していくが、チェンソーマンでは基本的悪魔と契約する事で力を得て、悪魔を倒す

先代からの技術を継承する事で鬼滅の刃の登場人物は力を得る。基本的に元柱クラスの強さを持つ鬼殺隊の育て手によって育成される。

一方、チェンソーマンでは悪魔と人間が交渉を行って、力を得るための対価を支払う事で力を得る。ここで呼吸と決定的に違う事は、力を提供する悪魔は人間の破滅を望んでおり、悪魔と人間がお互いにお互いを利用しあっている関係性になっている。

理想ではなく、狂気を以て世界に挑む

チェンソーマンにおいて、一番最強のデビルハンターは「頭のネジがぶっ飛んだ人間」である事はこれまで何度も言及してきた。

人間の不安や恐怖のメタファーである悪魔や、悪魔によって異常な死亡率を誇る狂った世の中では、狂気こそが最も有効な手段だとされている。

私たちの住んでいる世界でも大なり小なり狂っていると感じる部分がないわけではない。そうした世界の理不尽な部分やおかしさに対して、狂気で戦う事は1つの手段として考えも良いはずだ。

チェンソーマン世界の住民が理想を掲げて戦うには、世界があまりに過酷で、人間の精神が脆すぎるために向いていない。大人しくまともな感性や人間性を捨ててしまった方が効率的なのだ

チェンソーマンとデンジから盗めそうなもの

個人の欲求と狂気が切り開く活路

命を賭けてまで戦う意味を人間は見つける事は難しい。

だが、デンジは毎日の食パンとジャム、衣食住のそろった環境、マキマさんのおっぱいや姫野先輩のキスで本気で命を賭ける事が出来る。

恋する乙女が何でもできる仕組みと一緒である。
欲望は悪い物として扱われがちだが、どんな苦難が伴おうとも目標を達成するために進む力をくれる。

たかが、おっぱいされどおっぱいである。人間がその気になれば自分の身体を売ってもホストに何百万円を貢ぐ事が出来るし、鉄骨だって渡れる。

それ程人間が持つ欲の力は絶大で、はた目から見ればある種の狂気である。
だが、他の誰でもない自分の為にやる事であればどんな苦境にも耐えれてしまう

デンジが持つ欲望と狂気は、一種のモチベーション管理法として盗めそうだ。

夢と結果、それがクソだったとしても今を楽しみながら進む

自分で欲しいと思っていたものを手に入れた時、「なんか違う」、「これじゃない」という違和感を覚えた事がある人はきっと多いと思う。

それは欲しい洋服を買った時だろうか、初めて好きな人と付き合った時だろうか、夢見た会社に入って現実を知った時だろうか

デンジ君の場合は命を賭けておっぱいを初めて揉めた瞬間にそれを感じた。
上の画像はその時の気持ちを表したシーンである。

追いかけていた頃の方が良かった。夢だけを見ていた方が幸せだったかもしれない。現実を知った上で、それを受け入れて幸せになるにはどうすればいいのか。

そのヒントをくれたのが彼の上司であるマキマさんだ。

エッチな事は、相手の事を理解すればするほど気持ち良くなる

エッチな事以外の、全ての物事にも当てはまる。知れば知るほど、その奥深さが分かってくるものが世の中には沢山あるはずだ。それが友人の性格でもスポーツでも文学でも何でも良い。

かりに全てを知った上でもそれでも良いと思える事が出来れば、違和感を克服する事が出来るはずだ。

初めてのキスはゲロの味。その事実だけは覆せないけど、その記憶を思い出すヒマもないぐらいに新しい記憶で上書きしてしまえば良い。なんとも刹那的、無常観そんなものが似合う発想である。

求めていた結果が仮にクソだったとしても、深く知る事で結果は変わるかもしれない、あるいは、そんな結果が気にならないぐらいに新しい結果を求めれば良いのかもしれない。

何かのギャップに打ち勝つヒントになりそうだ。

生まれた環境を嘆かず、欲求不満をバネに上り詰めていく

デンジがデビルハンター、チェンソーマンとして徐々に生活の質を上げて幸福を追求していく姿がどん底にいる弱者が生きる上での1つの別解になるのでは感じた。

英雄に対するアンチテーゼとして出てくる鬼とは、どんな存在か。遊郭編で出てくる上弦の陸・妓夫太郎(ぎゅうたろう)は、自分の弱さや不幸を理由に、他者を不幸にしなければ気が済まない。
「モテる男性は暴力的で悪いやつらばかりだ」「上級国民が悪さをしているから、俺たちの生活が苦しいんだ」といったように、自分よりも幸福な人が許せない、という思想は、ネットでもよくありますよね。
「自分は弱者である男性(女性)だから、何をしてもいい」「強いやつらに復讐するんだ」と、都合よく弱者性を自分に引き付けて、「お前はワシがかわいそうだと思わんのか?」と他者を殴る。こうしたことは、ネットでもすごく良く見られる光景ですよね。

鬼滅の刃とフェミニズム ~これからの「フェミニズム」を考える白熱座談会(#これフェミ)Vol.03~ 全文掲載

ちなみにここでの英雄について記事ではこの様に述べている

自分の守ろうとしている人間がどれほど愚かで、弱くて、どんな困難に直面しても、それでもなお、「私は義務を果たす」「この人たちを守る」と言い切ることができる人間が、はなはだ素朴な意味での英雄というにふさわしい。ウェーバーは、こういう言葉を残しています。

鬼滅の刃とフェミニズム ~これからの「フェミニズム」を考える白熱座談会(#これフェミ)Vol.03~ 全文掲載

TwitterやTiktokを通して世の中のバカさ加減をこれでもかと知らずに死ねたマックス・ウェーバーは幸せだったのかもしれない。(もっとも、ウェーバーがバカさ加減をどこまで感じていたのかは今となっては分からないが)。

寿司ペロや成人式での暴走行為、「植民地になってもいい」発言をする人間、クソみたいな情報商材やアフィカス、ネットワークビジネス、挙句の果ては過激なTwitter上に存在するフェミニスト。

愛国心すらタブーのこの国で「それでもなお、「私は義務を果たす」「この人たちを守る」と言い切ることができる人間」は確かに英雄だが、それはジャンヌダルクのような便利な使い捨てタイプか、英雄になり損ねてナロードニキになるのが落ちである。

だが、ここで恨み言をいくら言っても何も生まない。その事実だけは変わらないのだ。

デンジは自分の生まれた環境を嘆かずに、愚直に自分の欲望に従って突き進んでいく

自分の置かれた環境や弱さを欲望と狂気によって克服していく。

仮に復讐をするとしても、それは最強の大会程度の「Easy revenge(気楽に復讐を)」の精神で行う事がハッピーで埋め尽くてレストインピースまで行く秘訣だろう。





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