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年賀状をどうしたものか

新たなる悩み

実家の整理を始める前に、まずは自らの身辺整理を始めようとして、どうにも迷ったことがある。

大量の年賀状はどうするのだ。

思い返せば、凡そ手紙の類を処分したことはない。昔っから。その代表選手が年賀状だと思う。

子どもの頃は滅多に手紙なんぞは書かなかった。まぁ、大抵の子どもはそうだと思う。

クラスメートが転校した時の別れの手紙とか、授業でどこかの大人にお世話になった時のお礼の手紙とか、要するに誰かに言われて書くことはあっても、自らの確固たる意志を持って書くことはなかった。

大人になってからというもの、環境も立場も変わり、殆どの場合、会いたければ何時でも会えるし、遠くて会えなければ電話で話せばいいし、そうこうしているうちに電子メールなどという便利なものまで出てきて、挙句の果てには老若男女が挙ってSNS。

なので、手紙なんぞはそうそう書くものではない、そんな人生を歩んで来た訳だけれど、その中にあって唯一の例外、それが年賀状だろう。

なにせ生まれてこの方、処分したことがない。多分、記憶がないのではなく、本当に捨てたことなどないのだと思う。

それは、相当な分量に達しているに違いない。

実家を出る前の分は実家に、居を構えてからの分は自らの住まいに。それは毎年毎年、喪中の年を除き積み重ねられて来た、確実に可視化出来る我が人生の足跡。

今の人たちは(敢えて若者に限らず)年賀状離れしていると言う。確かに、メールやSNSで済ませてしまえば、楽だし、より凝っていて面白いものも送れるだろう。少ない負担でより楽しいのだから、選ばない訳がない。

年賀状の始末に悩む世代は、今後先細りになっていくに違いない。

ただ、残念ながら(とも言い切れないかも知れないけれど)自分はそうではないのだ。今も、毎年毎年年賀状を生産し続けているのだ。

この膨大な過去の足跡。一体どうしたものか。