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「自分」
今回も回想記。自分が中学生の頃の話。
とすると、もう半世紀前のことになるのだな。個人の人生として捉えるならば、最早大昔の範疇だ。
その頃、近所に小川が流れていた。
いや、過去形じゃなくて今も流れている。
高度成長期にあって、生活排水やら何やらで本流は随分と汚れてしまっていたけれど、支流であるその小川には澄んで綺麗な水がサラサラと流れていた。
いろんなものが消え去ってしまった今となっては信じ難いことだけれど、小川に沿った崖の端に小さなワサビ田があったことを覚えている。
つまり、その小川は護岸されることもなく自然の形態のままだったのだ。
だから、岸辺の草陰にはザリガニが潜んでいた。
ちなみに、大昔レベルの過去のこととは言うものの、既にその時点で件のザリガニたちは二ホンザリガニならぬ赤くて大型のアメリカザリガニだったと記憶している。
その大型の外来種は、とうの昔に全国津々浦々で幅を利かせていたのだ。
そして、自然の中にあって安全なその小川のほとりは、当然の如く子どもたちの遊び場だった。
と言っても、狭い場所だから遊びのメインはザリガニ釣りだった。
ザリガニ釣りとは面白いものだ。
釣ったザリガニをその場で餌に加工してしまう者もいたけれど、ザリガニに恨みのない私にはそんな殺生は出来なかった。
加工していた者だって、ザリガニに恨みがあっての蛮行ではなかったかも知れないけれど。
そして、殺生否定派の私としては、自宅から持って来た餌でもない限り、その辺に生えている雑草を加工して餌代わりにしていた。
当然、ろくに釣れはしなかったが。
小川のほとりで遊んでいたのは小学生か中学生だった。高校生はザリガニはあまり釣らないだろう。
今時は中学生でも釣らないか。
まして、大人ともなれば親子連れ以外には居なかったと思う。
独り寡黙にザリガニを釣るオヤジが居たりしたら、それはさぞかし怖かったと思う。
独りで燥ぎながら釣るオヤジはもっと怖いな。
そんなある日、小学生グループと会話を交わす場面があった。
話の中身はまるで覚えていないけれど、話の流れの中で私は「自分」のことを「自分」と称したのだと思う。
そして、それに対しての小学生君のリアクションが、「自分って何?どういう意味?」だったのだ。
「自分」という言葉は、常日頃から特別に考えることもなく、言ってみれば「普通に」使っている言葉だ。
シチュエーションで使い分けつつ、「僕」とか「俺」と同様の頻度で使っている。
だから、「自分って何?」と聞かれてドキリとした。
「せ、説明出来ない…」
「自分」という言葉の意を解せない小学生に、「一人称のひとつだよ」などと言ったら益々もって収拾困難な混乱が訪れるに違いない。
「一人称って何?どういう意味?解んないことばっか言わないでよ!」てな具合になる。
だから、正確には覚えていないけれど、確か「自分ってのは僕とか俺と同じ意味だよ」と説明したのだと思う。
当の小学生君は、解ったような解らないような表情で頷きつつも、私のことを「自分」と呼んでいたっけ。
解って貰えなかったのだ。
考えてみれば「一人称のひとつ」というのも随分といい加減な答えだ。二人称で使うこともあれば代名詞として使うことだってあるのだから。
私の説明能力は推して知るべしということだろう。(過去だから他人事ね)
そもそも何で「自分」という言葉は「自分」のことを意味するのか?「自」だけでも足りてるような気もする。
だとしたら「分」とは何なのだろう?
調べてみると、どうも「分相応」とか「分不相応」の「分」のようだ。言い換えれば「キャパ」とか「スキル」なのだろう。
元々「自分」とは「自らの力量や能力」を表す言葉とのことだ。昨今、普通その意味では使われていないと思うけれど。
では、その言葉がどうして一人称や二人称に繋がっていくのだろう?
一人称ありきで考えれば、二人称の方は何となく解る。
二人称の場合は「御自分」といったように、相手を敬う修飾を伴うことで意味が転じるのだろう。
でも、一人称の方は解らない。調べきれなかった。
矢張り日本語は難しい。学びは日々続く。