認知症の父のたどった2年間

2020年、サービス付き高齢者住宅から自宅に戻った父。

その時点で、アルツハイマー型認知症、中度との診断だった。

ひとりでご飯を作ることはもちろんできない。

家の中は危険がいっぱいだ。

とはいえ、本人が 
「のたれ死んでもいいからここに住む!」
とすごい剣幕で言うのを、これ以上押さえることはできなかった。

そんな中私にできた精一杯は、
小規模多機能さんに父をお願いすることだった。

毎日通いで、父の体調や投薬の管理、
掃除や洗濯等、日常生活に必要なことをひとまとめで
見てもらうことにした。

気性が荒くなることのある父は、施設で
みんなと食事をとることは難しいと言われ、
宅配のお弁当をとることにした。

自宅にて、最低限の生活ができる準備が整った。

何か異変があっても小規模多機能の職員さんがすぐに知らせてくれるというのは
ものすごい安心感だった。

そうはいっても色々と不安なので、
月に1回程度は顔を見に行くようにしていた。

父の症状は
少しずつ、少しずつ悪くなっていた。

一日中、深夜や早朝問わず電話をかけて来て
意味不明なことを口走っていたが
いつからか電話を使うことができなくなった。

近所を定期的に散歩していたが
いつの頃からか、家に戻るのが難しくなり、
警察に頻繁に保護されるようになった。

いつだって母の名前を言い続けているが
写真を見ても、自分の妻の顔がわからなくなった。

娘である私のことを、母の名前で呼ぶようになった。

絵を描くことが大好きだったが
今までのような絵を描くことができなくなった。

何がゴミかの分別のつかないので
家中にお弁当の空き箱やストロー、米粒などが散乱するようになった。


これらは父がたどった変化のごくごく一部。
少しずつ、でも確実に、認知症は
本来の父の姿を奪っていった。

月に1回、父を病院に連れていく必要があったのだが
毎回その時間が苦痛だった。

「おうちではどなたかとご一緒に暮らしてますか?」

との医師の質問に対し、ある時から父は

「妻と一緒に暮らしています。」

と答えるようになったからだ。

母が亡くなった悲しみを共有できない。
父の中で母は生きているのだ。
それを否定したところで意味はない。

父の発言を聞く度に
胸がえぐられるように痛んだ。

徘徊がひどくなった頃、病院での医師との会話は
「奥様はどこにいらっしゃるんですか?」

「ちょっと出かけているんだけど、なかなか帰ってこないんだよ。
心配で迎えに行ってるんだが、いないんだ。
一体どこに行ってしまったんだろう。」

との発言。

父の徘徊は、母を探すためのものだったのだとこの時知った。

父にとって、母は全てだったのだと再確認した。

母を探し続ける父。
どんなに探しても出会えないことを知っている私。
そのやり取りを、なんとか泣かずに聞き流そうと
できるだけ感情を無にしなくては
自分が壊れそうだった。

毎回のようにこのようなやり取りがあったので、
父と会う度に切なく、往復の車の中はいつも涙が止まらなかった。

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