配慮の時代 #磨け感情解像度
映画館に来るなんて久々だと思いながら、チケットに書かれた座席を探す。
目当ての席を見つけるとなぜかそこには先客がいた。何度も座席の番号とチケットの番号を交互に見比べたが、やはり合っている。
「あの」
私はおずおずと私の席にすわっている男性に声をかけた。
チケットを見せながら事情を説明すると、
「僕はなんて失礼なことを。たいへん申し訳ありませんでした」
その男性は何度も頭を下げた。彼の席は私の右隣りだったようだ。彼は全身で恐縮しながら席を1つずれ、私はつられたようにぎくしゃくした足取りで彼が空けてくれた席に座った。
映画が始まる時間まではまだ5分ほどあった。売店で飲み物でも買って来ようと腰を浮かしたタイミングで、
「もし、お嫌いじゃなかったら・・・」
隣りの彼が売店で買ったらしいホットコーヒーを差し出してきた。
「途中でもう一つ飲みたくなるかもしれないと思って、二つ買っておいたんです。まだ十分暖かいとは思いますが、人によっては少しぬるいと思われるかもしれません。それはあらかじめご了承ください」
最後の「あらかじめご了承ください」という言い回しについ笑ってしまい、そのまま自然な流れでコーヒーを受け取った。一瞬手が触れた。彼は照れたように少し口元を上げ、ゆっくりと前に向き直った。
やがて上映を告げるブザーがなり、スクリーンを覆っていたカーテンが左右に広がった。
新作映画の予告編が数本流れたあと本編へ。その前にいくつかの注意事項が映し出される。スクリーンいっぱいの文字が警告音とともに次々と下から上へ流れていく様子はまるでSF映画のオープニングのようだ。
『この映画はストーリー展開の都合上、一部暴力的な表現及び残虐なシーンの描写があります。また主演俳優が複数の女優と不適切なな会話を交わしたり性的な行為にいたるシーンがあります。これらは原作者の意図に従い、制作者が演出上不可欠と判断したものです。ご鑑賞の皆様ならびに各演者のファンの方が不快な思いをされないよう最大限に配慮してはおりますが、万が一途中で気分を害されることがありましたら、目を閉じる、耳を押さえて音声を遮断する、もしくはご鑑賞を中断し退出されるなどの行動を自己判断でお願いいたします。また、いかなる場合においても料金の返還等は一切行っておりませんので、あらかじめご了承ください』
期待以上に面白い映画だった。上映前の注意事項のおかげで、私はストーリーに集中して2時間を楽しんだ。密かにかっこいいと思っている主演の俳優目当てでこの映画を見ようと思ったのだけれど、彼が次々と殺人を犯すシーンもこれは演技なのだからと心を落ち着けて視線をそらさずにすんだ。もちろんキスシーンやベッドシーンには多少の動揺はしたけれど、これも演出上不可欠な描写なのだからと自分に言い聞かせて乗り切った。もしなんの予備情報もなくこの映画を見ていたら、衝撃のあまり途中で席を立ってしまっていたかもしれない。
上映が終わり館内の照明がついた。観客が一斉に席を立ち出口に向かう。しばらくラストシーンの余韻に浸り、混雑を見送ってから私も立ち上がる。ちょうど同じタイミングで席を立った隣りの席の彼と軽く肩が触れ、なんとなく微笑み合った。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
会釈した私に、
「とんでもない。こちらこそ席を間違えてしまって申し訳ありませんでした」
彼は照れたように笑った。何となくそのまま一緒に出口に向かう形になり、
「映画、面白かったですね」
私はエレベーターの中で彼に話しかけた。
「ええ。とてもいい映画でしたね。でも」
「でも?」
「途中で主人公がひどく酔っぱらって泣くシーンは、彼の悲しみが伝え切れていないような気がしませんでしたか?原作ではあの描写は主人公が悪に手を染めていくきっかけとなる重要な部分なんです。映画のいちばんのみどころでもあるはずなので、あらかじめ注意事項で伝えておくほうがよかったんじゃないかなと思いましたね」
「あのシーン!そうだったんですか?私、気づいていませんでした。残念だわ、あらかじめちゃんと注意しておいてくれたらしっかり見たのに」
「貴重な時間を使って映画館に足を運ぶひとのことをもう少し考えて欲しかったですね。でも昔にくらべれば、これでもずいぶん配慮できるようになったらしいですよ」
エレベーターが一階に着いた。
彼は、
「もしお時間が許すなら」
と遠慮がちに私を近くの喫茶店に誘い、私も、
「よろしければ、もう少しお話を聞かせていただきたいわ」
と答えた。
彼の話はとても知的で興味深かった。かなりの映画好きらしくさまざまなジャンルに造詣が深く、聞いていてつい身を乗り出してしまう。
「20世紀の映画をご覧になったことがありますか?」
彼に尋ねられて私は首を振った。
「あの頃の映画の一部にはいわゆるどんでん返し、衝撃の結末というものが多かったんですよ。ラストシーンですぺての謎が明かされる。ミステリーなら犯人が判明する、ラブストーリーならずっとすれ違っていたふたりの気持ちがようやく通じ合うというような」
さらにホラー映画などでは、何の前触れもなく幽霊や殺人鬼が現れて登場人物が絶叫しながら殺されてしまうようなシーンも多かったのだとか。
「なんてひどい」
私はため息をついた。
「そんなシーン、きっと私も絶叫してまうわ。子どもが見たらトラウマになるんじゃないかしら」
「なかでも衝撃のラストシーンで有名な映画は」
彼は微笑みながら言った。
「例えば、『シックスセンス』という映画をご存じですか?」
「タイトルは、聞いたことがあるような。相当昔の映画ですよね」
「そう。その映画のラストは・・・・・・」
彼の口から語られたその結末に、私は
「信じられない!」
と両手で口を覆った。
「ひどすぎるわ!そんなストーリーを何の注意勧告もなく見てしまったら、私、もう何も信じられなくなってしまいそう」
「そういう配慮のない時代ならではの映画ですよね。現代だったらあり得ない」
「本当に。今がそんな時代じゃなくて良かったわ」
大きくため息をついた私に彼はうつむいてしまった。
「申し訳ありません。あなたと向かい合ってお話ししていると何だか楽しい気持ちになってつい調子に乗ってしまいました。あなたがこのようなお話が好きではないことを想定して配慮するべきでした。謝ります。本当に、申し訳ない」
頭を下げて詫びの言葉を口にする彼に私は慌てた。
「どうぞ頭を上げてください。あらかじめ伝えておかなかった私の方が悪いんです。もしご迷惑でなかったら、一緒に食事でもしながらもっと楽しいお話をしませんか?」
私の言葉に彼は弾かれたように顔を上げ、
「迷惑だなんて!」
大声を上げた。
「実はちょうど僕も同じことを考えていました。こちらこそ、もしご迷惑でなかったら、あなたを食事にお誘いしたいと」
いきなり元気を取り戻したその様子が何だかおかしくて私は笑ってしまう。
「こんなことを言ってもあなたが不愉快にならないと良いのですが。私たち、なんだか気が合いそうですね」
嬉しそうに彼が頷いた。
思えば不思議な縁だったと思う。私たちはその後お互いの連絡先を交換しあい、何度か一緒に映画を観る仲になった。彼は私だけにではなく、周囲のすべてに気遣いや配慮のできるひとで、私は会うたびに彼のことが好きになっていった。
彼にプロポーズされたときの言葉をうっとりと思い出す。
「僕と結婚することは、あなたの幸せを保証するものではありません。病める時もあるかもしれないし、いつも健やかな気持ちでいられるとは限らない。ひょっとしたら、時にはお金のことであなたに苦労をかけてしまうことがあるかもしれません。それでも、あらかじめご了承いただけますか?」
結婚を決めた私たちは、式に貴重な時間をさいて祝いに来てくれる人たちに、最大限の配慮をしなければならないと何度も話し合った。万が一私たちの言動で不快な思いを抱かせてしまっては取り返しがつかなくなる。さまざまな意見を出し合った結果、式場にスクリーンを設置し、式が始まる前に私たちの思いを写し出してもらうことに決めた。文面は映画好きな彼が考えた。
『私たちの結婚式において、永遠の愛を誓うシーンがございます。また、キスをするなど倫理上好ましくない描写もございますので、未成年及び性的な描写に抵抗をお持ちの方は目を閉じる、耳を押さえて音声を遮断する、もしくは鑑賞を中断し退出されるなどの行動を自己判断でお願いいたします。また両親への花束贈呈や感謝の手紙の朗読など涙を誘うような場面もございますが、これは式を盛り上げるための演出上不可欠なものとして新郎新婦が判断したものです。また、この度の婚姻がいかなる事情等により途中で終了となった場合でも、今回頂いたお祝いの言葉、ご祝儀については謝罪、返金などの対応は致しかねます。あらかじめご了承ください』
誰かが軽い気持ちで発した言葉が簡単に人を傷つけてしまう野蛮な時代は、もうはるか昔のこと。リスク管理は徹底的に。
私たちはあらゆる配慮を求め、求められて現代を生きている。
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