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ノーマライゼーションとパラリンピックの楽しみ方

ドーモ。ミナ=サン。ポ・キールです。

note記事のご好評いただきありがとうございます。本当に感謝しています。

しかしながら、その内容は「フェミ」に関係するもの。もちろん私の伝えたい想いを込めて書いているわけではありますが、最も伝えたい事、というかライフワークとする内容はあまり書けていません。

この好評の波に乗ってシレっと出せば読んでくれるかもしれない、パラリンピックの開催中という追い風が来ている。という事から書きたいことを書きます。

内容は「障害」や「差別」といったことに触れますが、メインテーマとしては「幸福」です。いつもとテーマこそ違えど読み口は同じにするつもりですし、面白いものを書きます。是非最後まで。

なので今回の内容は「思いの丈」としましょうか。噛み砕いて書くつもりですが、なので、間違っている事、伝わりにいことがあらば仰ってください。

あまり同じ説明を何度もしても仕方がないので以下の記事の「2.障害って何?」と「3.個人モデル、社会モデル」の項目を読んでいただければ今回の記事も読みやすいと思います。よろしければ。

ではスタート


1.ノーマライゼーションって何?

おなじみのwikipediaから

ノーマライゼーションまたはノーマリゼーション(英語: normalization)とは、1950年代に北欧諸国から始まった社会福祉をめぐる社会理念の一つで、障害者も、健常者と同様の生活が出来る様に支援するべき、という考え方である。また、そこから発展して、障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿であるとする考え方としても使われることがある。またそれに向けた運動や施策なども含まれる。

出典:Wikipedia「ノーマライゼーション

わかるようなわからないようなですね。直訳すると「ノーマル=正常、普通」なので「ノーマライゼーション=正常化、均一化、普遍化、一般化」といったところでしょうか?

そこから、「障害者も健常者もどちらも「特別」ではなく「普通」であり、一緒に暮らすのが当然のことである。」みたいな感じですね。

ついで厚生労働省のHPも見ましょう。

障害のある人もない人も、互いに支え合い、地域で生き生きと明るく豊かに暮らしていける社会を目指す「ノーマライゼーション」の理念に基づき、障害者の自立と社会参加の促進を図っています。

出典:厚生労働省障害福祉施策の考え方

こちらは大分噛み砕いてますね。「どんな人とか関係なくみんな互いに支えあえるハッピーな社会がいいよね!」みたいな感じでしょうか。

とっても良い言葉ですよね。私はこの言葉が大好きです。

「そんな社会にしたいね!私も協力する!」って思った人がほとんどだと思います、では「どうすれば?」が次に疑問として浮かぶと思います。

それが本題となるんですがまずは「物理的なノーマライゼーション」と「精神的なノーマライゼーション」に分けます。それぞれを説明しますね。

まずは物理的の方から行きましょう。


2.バリアフリーとユニバーサルデザイン

の前に、少し用語の説明をします。

「バリアフリー」って言葉はみなさん一度は耳にしたことがありますよね?でもどういう意味かを問われたら「段差をなくす」くらいの答えしかない人が多いんじゃないでしょうか?

もちろんそれも正解です。正確には「バリア=障壁、障害をなくす」という意味です。

すり足でしか歩けない人や、車いすの人にとっては少しの段差で進めなくなるので段差をなくし、スロープにする。バリアフリーですね。

もちろん段差だけが「バリア」ではないので、他に例を出すと点字ブロックや信号機の通りゃんせ(視覚障害)、エレベーター(移動障害)、ピクトグラム(読字障害)などもバリアフリーです。

設備等の物的環境だけでなく、例えば段差を越えるときに手伝ってくれる、筆談で対応してくれる(聴覚障害)といった人的環境もバリアフリーになります。

もうひとつはユニバーサルデザインという考え方。

「ユニバーサル=普遍的な、デザイン=設計」ということですね。これを理解するのはとっても簡単です「全員が使いやすいのが一番ええやん」というマッチョな発想。比較的新しい考え方で私と同じ年になります。(年バレちゃう)

これは例を挙げだすとキリがないんですけど、エレベーターにする、道を広くする、自動ドアにする。滑り止めの付いた箸、視覚・聴覚・触覚・バーバル・ノンバーバル情報全て併せ持つ表示などなど。「全部これにしちゃえ!」って思うかもしれませんがデメリットもあります。

第一には「誰でも」ということが難しいこと。
第二に「コストがかかる」こと。

例えば、視覚障害がある方にとっては真っ平な地面では触覚情報がないと困るので点字ブロックを設置したとしましょう。しかし今度は、その点字ブロックのちょっとしたデコボコでつまづく高齢者が発生してしまう、という感じです。端的に言えば「こちらを立てればあちらが立たず」です。

また、バリアフリーにせよ、ユニバーサルデザインにせよどちらも良いことなのでどんどん進めちゃえばいいじゃん!と思う一方で「コスト」は大きな問題です。

例えば若いころに家を買って、高齢になってから車いす生活を余儀なくされた。「廊下がせまいねん!」「デコボコいっぱいやんけ!」「ここ引き戸やったらええのに…」と不満が噴出してもバリアフリーに改修するにはお金がかかる(※補助はでます。)

「ほなら最初からユニバーサルデザインの家買ったろ!」となったとしても「無駄に廊下広いねん。それより部屋広くしろや!」「この家高ない?」となるわけですね。

公共の場を作る、改修する際に我々の血税が投入されるとなると多数を占める健常者は「そんなもんにお金使わんでええ!他に使ったらええねん!」と思うかもしれません。

豊洲市場や新国立競技場のゴタゴタを見ても「誰でも"納得の行く"」がどれくらい難しいか、またそのリカバリーコストがどれくらい掛かったかと振り返れば「バリアフリー・ユニバーサルデザイン?やったらええやん!」と諸手を挙げて歓迎とも行かず、デメリットや不安も残ると言えるでしょう。

そんな事を念頭に置きながら、以降を読み進めてください。

3.物理的なノーマライゼーション

で、バリアフリーやユニバーサルデザインがどうノーマライゼーションに関係するの?という疑問になると思います。

例えばあなたが朝起きて寝るまでの生活を想像してみて下さい。

食事をする、化粧や歯磨きをする、排せつする、歩く(移動する)、電車に乗る、仕事をする、家事をする、人と関わる、字を書く、遊ぶ、こういった事は全てではないにせよ誰でも行うことですよね。

そしてこれらは「当たり前」だと思いませんか?

これらを何らかの理由で「やっちゃだめ!」って言われても納得できませんよね。だって「当たり前」ですから。

だから「障害」という理由があったところで「できない」になるのはおかしいと思いませんか?

もちろん障害が理由で他の多くの人と全く同じようにできない事もあるとは思います。しかし、なんらかの代替手段や(歩行なら杖や車いす)環境調整によってそれが可能となるならば、その方が望ましいのは言うまでもありません。

その代表が、前項のバリアフリーやユニバーサルデザインなのです。

もう一つの考え方として、例えば「目の前で足を捻挫した人がいて足を引きずらなきゃ歩けない、じゃあそこまで肩を貸して歩きましょうか?」と手助けするのはそんなに珍しい行為ではないでしょう。

では、先ほどの説明であったような「車いすに乗ってる人が段差を越えられない、じゃあ段差だけ手伝いましょうか?」と。これも別に珍しくはありませんね。

つまり、これらは「障害がある人だから」「特別(かわいそう)だから」助けている訳ではなく「困っていそうだ」と感じたから助けようとしたのであり、両者ともここに帰結するわけです。

このようにやって当たり前、やって普通なんだからやろうよということは「合理的配慮」と呼ばれ、ノーマライゼーションにとって大きな柱になっており、体系化も進められています。

そしてこの合理的配慮をまとめたこんなものもあります。「合理的配慮具体例データ集」です。

4.合理的配慮の範囲と問題点

どこまでが合理的で、どこからがワガママか?という問題はいつも議論を呼びます。

例えば「こんな夜更けにバナナかよ」って映画がありましたよね?私は見てないんですけど勝手な想像として、障害がある人(大泉洋、以下洋ちゃん)が夜中に「あー。バナナ食いてぇなぁ」って新人のヘルパーの女の子に言い出すんですよ。そしたら女の子は「こんな夜更けにバナナかよ」って思うみたいなくだりが掴みのシーンであるんですよ。きっと。(見てません)

洋ちゃんは動かずに女の子に買ってこさせるとなるとこれは「ワガママ」だと思います。しかし、劇中では文句を心の中で垂れながらも車いすに移乗させて少し遠くのコンビニまで一緒に買いに行くと思うんです。(見てません)

ここで考えて欲しいのが夜中急に「ラーメン食いてえ」とか思ってわざわざ買いに行く事ってありますよね?(20歳くらいの時の話で、今はないなぁ…)

「面倒くせぇ」と思ってやめる時もあるかもしれませんが、いく事もあります。もしあなたに無くても行く人はいます。洋ちゃんは行きたいと言ってます。だとしたら行くのが普通なんだから「合理的配慮」になると思います。

ただ「こんな夜更けにバナナかよ」って言い返しても良いと思います。それが普通だと思うので。これは後に説明する精神的なノーマライゼーションに繋がる話でもあります。(見てません)

ちなみに見たいと思ってるのでこれにつてのネタバレはしないで下さい。見る気がなかったらどういうシーンなのか確認してから書きます。お願いします。

さて、今年の4月にあったことを覚えていますか?

伊是名さん擁護よりの記事、批判よりの記事の両方を載せておきます。

内容は割愛しますが私が気になった点がいくつかあり「前もって駅の状態を調べていなかった」や「タクシーがすぐに対応できない事をしっていながら30分以内の対応を求めた」などがあります。

これって「障害」関係ありませんよね?普通は旅行に行く前に交通機関の予約や駅の状況を調べませんか?

私は1歳の子供連れて旅行に行った際には、ベビーカーを押しながらちゃんと行動できるか調べてから行きました。それがベビーカーでなく電動車いすのような重く、高価なものならなおさら調べるのが普通だと思いませんか?

そのため私はこれは「ワガママ」だと思っています。

既に述べたように、バリアフリーとユニバーサルデザインの問題点は、第一には「誰でも」ということが難しいこと。第二に「コストがかかる」ことでした。その上で、内閣府は合理的配慮等具体例データ集の利用について、このように留意点を述べています。

合理的配慮は、障害の特性や社会的障壁の除去が求められる具体的場面や状況に応じて異なり、多様かつ個別性の高いものです。建設的対話による相互理解を通じて、必要かつ合理的な範囲で、柔軟に対応がなされるものであり、本データ集に事例として掲載されていることを以て、当該事例を合理的配慮として提供しないことがただちに法に違反するもの(提供を義務付けるもの)ではない点にご留意ください。

バリアフリーやユニバーサルデザインにリビルド出来る予算が無尽蔵にあるはずもありませんし、自治体の駅と庁舎だけが立派になるも少子化や過疎化が進んでゴーストタウンになる未来すらある日本では、経済的合理性や将来性、必要性も含めて拾い視野で論じられなければなりません。それらを無視した時、その主張は「合理的配慮を盾にした単なるワガママ」に変貌してしまうのではないでしょうか。

一概にこう!なんて事は言えない事ですが、これからどんどん議論を交わして「合理的配慮」の溢れる世の中になれば良いと思っています。

私は、JRは十分に合理的配慮ができていたと思いますよ。

5.精神的なノーマライゼーション

この話をする時にいつも例に出す話なんですが、まず聞いて下さい。

もう10年以上前になるんですが、私の生活圏内に「ぶあいそう」という名前の居酒屋が出来たんです。それを見た時びっくりしました。

普通に考えて、居酒屋って客商売ですよね?客商売なんて愛想がよくてナンボなところがあるじゃないですか。「いやいや、こんなもんフリで実際は愛想がええんやろ」と友達と行ってみることになるわけです。

行ってみてさらにびっくりしました。本当に不愛想だったんです。笑顔のひとつも見せない。まあそのくらいは良いでしょう、でも店主と思しきおばちゃんが「注文したのに、本当に伝わってるかどうか心配になるくらいの小さい声で返事する」んです。

「ぶあいそう」って居酒屋に行ってみて「愛想が良い」でも面白い、「愛想が悪い」でもネタになる、どっちにせよまた行こうと思う。そんなレベルじゃない愛想の悪さだったんです。むしろ愛想の問題か?と。

でもその居酒屋未だ続いてるんですよね。なぜなら「美味しいから」です。

そしてこれこそが私は精神的なノーマライゼーションの核だと思っています。

詳らかに説明すると無粋ですが、まず居酒屋に求められているものは「愛想」なんかじゃないんですよ。だって飯食ってお酒を飲むところなんで「料理や酒が美味しいか」なんです。一時期流行った居酒屋甲子園的な居酒屋は私には煩いだけでした。料理が出てくるのが遅い、余り美味しくない、けど挨拶や返事の声だけはデカイ(私が入った店がたまたまそうだっただけかもしれませんが)。

あえて堅い表現をすると「何らかの機能障害、能力障害、参加制約、特性などがあったとしてもそれそのもの以外が損なわれるべきではない。人格、地位、資格、価値などとは関係しない」といったところでしょうか。

なんだったら「愛想が良い」ことが「良いこと」なのかという疑問もありますよね。だって「ぶあいそう」って居酒屋の店主が「無愛想」だったら面白いじゃないですか。

そして現実に「ぶあいそう」は自立し、社会と共生しており、ノーマライゼーションの精神を実現しているのです。地域社会は「ぶあいそうの無愛想」を受け入れました。無愛想を許容した人々の方が、無愛想を許容出来ずに来店を拒んだ人々を上回ったのです(恐らく、受け入れた人は意識的ではなく、自然と受け入れたのでしょう)。

無粋な客が店の中でこんな事を口にすることも実際にあったのかもしれません。「客商売やのに無愛想やね!」と。

カウンターに座っていた他のお客さんは、きっと心の中でこう呟いたに違いありません。「だからなんやねん」と。「むしろぶあいそうって書いてるやんけ。アホとちゃうか?」と。

こういった経緯から私は精神的なノーマライゼーションの核を「だからなんやねんの精神」と呼んでいます。

もうひとつ例を挙げます。

漢字が書けない(書字障害、ディスレクシア)の友達がいます。可哀想ですか?どう思いますか?

その友達はメジャーでバリバリバンドマンやってます。字もスマホがあるから困らない。強いて言うならサインを書く時に困るけどファンは漢字が書けないという事を説明したら納得してくれる。

漢字が書けない→だからなんやねん

になりませんか?字とその友達の演奏能力は関係ありません、字とその友達の作曲・編曲力は関係ありません、字とその友達の紡ぐ言葉は関係ありません。※もちろん字の事で困っていたら助けるべきです。

しかしながら、「差別反対」とのたまう人にこの「精神的ノーマライゼーション」の考えができていない事も少なくはありません。

すぐに「障害は可哀想」と言ってしまったり、「障害は不幸」だと言ってしまったり、「障害があるけど頑張ってる」と言ってしまったり。

また逆にノーマライゼーションを勘違いして「障害は(優れた)個性だ」みたいに言ってしまったり。

「障害は障害」です。

「障害は障害として扱う」その上で「障害はそれそのもの以外、その人の何かを損なうわけではない」ということです。ぜひ覚えておいて下さい。


余談ですが、「ぶあいそう」の店主はずいぶん愛想が良くなりました。それと系列店の「丼やぶあいそう」という店もあり、その店主も不愛想ですがめっちゃ美味いです。私が調理でよく使用する米油を購入するきっかけになったのはこの店の唐揚げがめっちゃ美味しいからです。

6.パラリンピックの楽しみ方

もうここまで読めば大体わかると思います。「普通」に楽しめばいいんですよね。「障害があるけどスゴイ」んじゃなく「その選手がスゴイ」で良いんだって。

こんなツイートも目にしました。

NHKを批判したくて貼ってるわけじゃないです。NHKとしても途中から見た視聴者にもどんな選手か伝えるために「障害」を含めた情報を伝えているんだと思います。真面目なだけだと思います。

車いすバスケのルールとして障害の重さ(どこまで身体が動くか)によって選手ごとに(重)1.0~4.5(軽)のクラス分けがされ、合計14点まででメンバーを組み合わせなければいけません。

このツイートに上がってる鳥海選手は2.5なので、障害は中程度のため軽度の選手より不利とされています。

だから「2.5なのにすごい!」みたいに思った方もいるかもしれません。でもこれを見て下さい。

トリプルダブルとはシュート、アシスト、リバウンドをそれぞれ2桁以上やるってことです。これ障害の重さ関係なく凄いですよね。

そもそも車いすバスケって、普通のバスケと同じリングの高さでやってるんですよ。例えばジャンプせずにシュートして入ります?むずいですよね。さらに座った状態で入ります?

むっちゃくちゃすごいじゃないですか。

だから「鳥海選手はすごい!」で良いんですよ。

ちなみに本日(8/28)も大逆転勝利を収め、準決勝まで勝ち上がってます。ここからは勝てばメダル決定です。楽しみですね。


それから、テニスのレジェンドって聞くと誰を思い浮かべますか?一般の日本人にこれを聞くと日本人の名前が挙がる事ってあまりないんですけど、プロテニス選手に聞くと日本人の名前が挙がる事が少なくありません。

大阪なおみ選手や錦織圭選手じゃありません。

国枝慎吾選手というんですが、このプロフィールを見て下さい。ヤバいです。どう見てもレジェンドです。

こんなレジェンドの存在を知らない人が多いって不思議じゃないですか?霊長類最強女子に匹敵するレベルのレジェンドですよ。

こんなすごい選手なのにテレビでは全然やってくれません。プレイを見るチャンスですよ。本日(8/28)初戦勝利を収めましたので、これからも見れます。

他にもカーリングと似たルールの頭脳戦が楽しめるボッチャや、ゴールボールといったパラリンピックならではの競技もあります。楽しい。

パラリンピックの楽しみ方ですが「とにかく楽しんで下さい!」私はなんだったらオリンピックより楽しい競技もたくさんあります。

ぜひに!


さいごに

最後にお聞きします。あなたは「健常者」ですか?

私は違います。具体的には秘密ですけど神経系のレアな障害があるので障害者です。でもこの障害がなくても健常者であると言えるかは疑問です。

「障害」が「困りごと」だとするなら、困りごとがない人間なんてほとんどいませんよね?だとしたら「障害がある人」が普通なので「健常者」はいないことになります。(不便だから健常者という言葉は使いますが)

もしかしたら「なんでもできて、超優秀で、お金持ちで、フィジカルエリートで、頭も良くて、そんな人は困りごとがないやないか!」っていう人がいるかもしれません。

でもそんな人って「共感出来る人」ってほとんどいなくて孤独だと思いませんか?

だから誰だって障害があって、それが普通で、特別なことじゃなくて、普通に暮らせるようになるべきなんです。

しかし、「自分も障害者」だからと「重い障害がある人」に対して、軽く扱えと言っているわけでもありません。

それぞれ一人一人が違う人間で、全員が違う特性があって、全員が別の障害を抱えている。それを理解する事はできない。理解したつもりになってもいけない。でも助ける事はできるということです。

「だからなんやねん」の精神をみなさんに持っていただき、自分自身を含めた全員が幸せになれるような世界を目指してくれるよう祈っています。

また、この文章が誤解なく読まれることを願っています。

またまた長文になってしまいましたがこのへんで失礼します。ポ・キールよりラヴを込めて。

またいつか。

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