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善と偽善、利他と利己

みなさまどうもお久しぶりです。ポ・キールでございます。

先日小田急線の車内にて痛ましい事件が起こりました。この事件内容について触れてしまうと軸がブレるのであえて説明はしません。被害者の方々の心を含めた健康の回復を祈っております。

その事件の後に全国被害者支援ネットワークへの寄付運動が起こって私も参加したのですが、その行為を巡って「偽善」だの「悪意」だの「ネット誹謗中傷粘着ストーカー行為常習犯」だのといった言葉が飛んできたわけです。

それについての批判や反論、抗議といったことはすでに言い出しっぺである神崎ゆきさんが理路整然となされております。さすが。

そのため今回書く内容は「私はなぜ寄付を行おうと思ったのか」という「自分語り」です。零細末端noteライターである私の自分語りに何の意味があるのか?という事も含めて書いていこうと思います。

いつも以上に独断と偏見まみれになると思いますがお付き合いいただけたら幸いかと思います。

ではスタート



あらまし

このようなツイートを見つけた。

私は驚いてすぐに引用リツをしていた。

その後このようなツイートを見かける。

それにあやかって寄付をした。

その後こうなって。

そしてこうである。

さらにこうなって。

それにこう!

現時点(8/12)ではこうなっている。

ちなみに私も入れてもらいました。やったぜ!

次から本題です。



1.なんで寄付したの?

寄付した理由はいくつかありますが

①被害者に何かをしたかった。
②善人アピールという承認欲求。
③自分が被害者になるかもしれないから。
④noteサポートの還元。
⑤ポストイット活動へのある種の抗議。

大体はこの5つで上から優先順位が大きいイメージです。ちなみに②については「一度寄付したがメルアドを記載しなかったために証明が残らず、アピールのためにもう一回同額を寄付する。」という事をしました。

一度目の寄付は善意があっても、二度目の寄付は純粋な承認欲求であり偽善であると思う人もいるかと思います。

さらに、こうして並べて見ると①~⑤は善/偽善利他/利己が入り混じっている印象を受けますね。

結局この行為が善なのか、偽善なのか、利他なのか、利己なのか、すべきなのか、すべきでないのか、それらを私はどのように考えたのか。

次の項では善/偽善を見ていきましょう。



2.善とは?偽善とは?

まず考えて行きたいのは、何の考えに基づいてそれらを決めるか?ということです。

倫理を大きく3つに分けると、プラトンやアリストテレスからの「徳倫理学」、みんな大好きカントの「義務論」、ベンサムやミルの功利主義を代表とした「帰結主義」になると思われます。

知らない人にざっくり説明すると、「心の動き(動機)」を重視するのが「徳倫理学」、「行為」を重視するのが「義務論」、「結果」を重視するのが「帰結主義」といったところです。(細かくは違うので詳しくはきちんと調べてみて下さい)

これらから考えていくと、「寄付」という行為によって多くの寄付金が集まったと思われ、それによって被害者への支援の助けになると思われます。そのため「帰結主義」の立場から言うと「善」だと言えます。(可能性が高い)

さらに「寄付」という「行為自体」も多くの人は「善行」だと考えると思います。しかし「義務論」では「その人が心から善行だと言えること(正確ではありません)」を善行と呼んでおり、一度目は「誰かのため」、二度目は「承認欲求のため」に行っているので一度目は「善」、二度目は「偽善」と言えるのではないでしょうか?

徳倫理学から言うと「動機」を見返すと、利他的行為や利己的行為が入り混じっており純粋な「善」とは言えません。そのため「徳倫理学」の立場から言うと偽善になると思われます。

私はどの立場でもなく、それぞれの考え方に良い部分があると思っています。善か偽善かで考えるのは難しいですね。

そもそも「偽善」で何が悪いの?という疑問が浮かびます。別にいいじゃんと。カント大先生に怒られそうですけど。

そういった意味では功利主義的な立場を取りがちなので、「被害者の幸福につながればそれでいいじゃん」といったところでしょうか。

次に行きます。



3.利他か?利己か?

「寄付」の話ではよく語られるのがこの話題だと思います。「それは利他的行為に見えて利己的行為なんじゃないか?」みたいな。

いわゆる「偽善」ってこれを指すと思うので少し掘っていきましょう。

①被害者に何かをしたかった。
②善人アピールという承認欲求。
③自分が被害者になるかもしれないから。
④noteサポートの還元。
⑤ポストイット活動へのある種の抗議。

この中で注目してもらいたいのが③自分が被害者になるかもしれないから。という動機です。

寄付は「行為」としてみれば明らかな「利他的行動」であり、金銭的に見ると自分は損しかしません。

「将来的に考えて、もしかしたら犯罪被害に合うかもしれないから」といった理由であっても保険に入ればいいという話です。

こんな事を考えているリチャード・ドーキンスという生物学の大先生がいまして(ご存命です)、その本は「利己的な遺伝子」というタイトルです。

簡単に言うと「自分が損するような利他的行動であっても、種とか似た遺伝子といった大きな単位で見たら得するから利己的行動と言えるよね」みたいな内容です。(これも詳しく調べてね)

荒い言い方をすると、結局のところどの動機も突き詰めて考えたら「利己的」だという話ですね。

寄付に対して「それ利己的やん!」っていう人を時々見かけますが、「利己的で何があかんの?」っていう話なんです。

利己的な行動を一切とれなくなったら滅ぶしかないだけです。遺伝子のエラーでしかありません。

さらにこの考え方は多くの思想にも繋がると思われます。次に行きましょう。



4.誰のために倫理はある?

少し話は変わりますが
「何故人を殺してはいけないの?」という疑問にあなたは答えることができるでしょうか?

私なら「自分が殺されたくないからだと思うよ」って答えます。

この返答って一見意味不明ですよね。でも実際問題として倫理や法律ってこういう風にできているんです。

簡単に言うと「私はあなたを殺すけど、あなたは私を殺さないで」っていう人がいたとしましょう。これに誰が従いますか?

「私はあなたを殺さないけど、あなたは私を殺していいよ」だったらすぐに殺されてしまうかもしれません。

「私はあなたを殺さないから、あなたも私を殺さないでください」とコミュニティの中で全員が考えるから「お互いに誰も殺さない」というルールとして成立するわけです。

「あなたの自由を侵害しない、だから私の自由を守って」というのが自由主義という現代において多くの国が採用しているシステムです。

自分の利己的な理由で、利他的な行動をとる。そして国家や人類という広い範囲での利己的な理由でもある。ということです。

結局のところ「自分のために倫理はある」のです。

次に行きましょう。



5.あなたの「自分」はどこまで?

「自分」という表現だとややこしいかもしれませんが、「利己的行動によって守ろうとする範囲はどこまでですか?」という話です。

例えば良くある思考実験で自分と自分以外の命を天秤に掛けるケースを想定してみましょう。

もし自分が死ぬ代わりに「娘」が生き残れるならば、私は確実にその方法を選ぶと思います。

これは「愛情」なのかどうかわかりません。私の遺伝子が、私に近い遺伝子を持つ娘を守る方が繁殖の期待値という視点で得をするという判断を下しているのかもしれません。

「妻」ならどうでしょうか?あまりピンときません。妻を愛してはいますがそのような行動は取らない気がします。

「他人の子供」ならどうでしょう?今は自分の娘を育てるという責任を負っているのでそれは選ばないですね。

しかし、自分が70歳くらいになった時に「自分そっくりな他人の子供」なら?もしかしたら自分の命を賭すかもしれません。

これは「命をかける」という条件でしたが、例えば「10万円を失う代わりに~」みたいな話ならどうでしょうか?

私は他人より「自分」の範囲が狭い人間だと思っています。人生のほとんどで疎外感を他人より感じてきたタイプだと思っているからです。

逆に言うと他の多くの人はもっと広い「自分」を持ってるのでは?

人によっては「地元のツレのためなら死ねる」や、「日本のためになら死ねる」と心の底から思っていた人もいる、いたかもしれません。



6.私の信条と社会活動

結局言いたいことはこれだけかもしれません。

私が中学生くらいの時に考えた理論なんですけど、「私に考え方がそっくりな人は少なくても1万人に1人くらいはいると思う。だとしたら日本全国で1万人以上いる。」その上で「自分一人が行動を起こしたって無駄だという人がよくいるが、私が諦めれば同じような考え方をしている人間1万人が無駄だと行動を諦めてしまう。だから私がここで踏ん張って行動を起こせば1万人頑張ると思われる」みたいな理論。

言ってることは一見無茶苦茶なんですけど、否定も難しい理論ですよね?

これをさらに拡大解釈すると、「パラレルワールドは存在しなくても、同じ現行世界で境遇の異なる自分のような人がたくさんいて、幸せかもしれないし、困っているかもしれない。」みたいな事も言えます。

だとしたら日本のどこかに、犯罪被害に苦しんでいる自分が一人くらいいてもおかしくない。ということなんです。

今まで「自分が犯罪被害に合う」なんて事は考えたことがありませんでした。恥ずかしながら。

だから「今までどこかで苦しんでいる自分を見捨てていた」とも言えます。ぶっ飛んだ論理かもしれませんが、これが私が寄付に至った本音です。



さいごに

実際にこの運動に多くの人が同調して、確認できているだけでも300人くらい。黙って寄付している人はもっともっと多くの人がいると思います。

それらの人が私にそっくりだというわけではありませんが、部分的には同調できているところがあるのでしょう。

まだこの運動が始まって3日です。

私はリツイートという形で支援をしますし、金銭的にも支援します、それを表明して同調者を煽る事もします。

そしてこのようにnoteを書いて自分の信条を吐露することで、万が一にでも私に似ている人がnoteを読んだ時の後押しもします。

そして動機のひとつとして書きましたが、「noteサポートの還元をしたかった」ということもあります。

noteにサポートするって誰かのために支援するとても素敵な行動だと思うんです。金銭的にそれを寄付に使うという後押しになったこともそうですが、そういった支援を利他的に行えるという人がいるという事が私にとって大きな後押しになった事は間違いありません。

だからその報告のひとつの方法としてnoteにしたためたかったということがあります。

このように誰かの後押しが、誰かを後押ししてそれが波及していく。そして大きな運動になっていく。

私は社会の中の小さなちっぽけな歯車だと思っています。それを私は誇りに思っていて、社会と言う大きなものを構成する一部分であることは人としての幸せだとも思っています。

今回はこのような運動で、他の何かでも社会を良くしていく、誰か幸せな人が増えていく。そのような社会を作り上げる一端を担っていけたらいいなと思います。

このような運動に参加させて頂いた神崎ゆき氏に感謝するとともに、みなさんの幸せが少しでも大きくなることを願っています。

ではまたいつか。


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