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多様性のパラドクス

お久しぶりです。ポ・キールでございます。

ついに東京オリンピックは目前に迫ってきました。今回のテーマとして「多様性と調和」が掲げられています。

「多様性」という言葉はこの数年の間にかなり耳にする機会が増えたと私は感じています。

しかし、この言葉を口にする人はみんな嚙み砕いて、飲み込んで、消化できているのでしょうか?そんな疑問が浮かびました。

今回は「多様性」という言葉について「考察」していきます。批判、反論どんとこいの姿勢で書いていくことにしましょう。

ではスタート



1.多様性って何?

ではいつも通りwikipedeiaから

多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。 英語の多様性"diversity"の語源は、ラテン語ではdiverstiasに求められ、この言葉は、最初には、一致可能なものに反すること、矛盾、対立、不一致、といった消極的な意味を有したが、第二義的に、相違、多様、様々な形になる、という意味も併せ持っていた。17世紀になって、消極的な意味が失われ、現在のニュアンスになったとされている。また、diversityとは、相異なる要素を有する、もしくはそれから構成される状態であり、そこから更に、異なったタイプの人々をあるグループや組織に包摂すること、とされている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia):多様性

これは要約の必要もありませんね。

そもそもの出元で言うと生物学の用語だと思うんですけど、私は高校生物すら取っていないので浅学の極みです。

その上での私のイメージだと「生存競争においては生き残れば勝ちであり、捕食、気候、疫病、食料といった様々な環境の変化に対応できる可能性を高めるという面で、多様性は種という単位で見た時に有用である」といった感じでしょうか?多分大体合ってると思います。

ちなみに環境によって種が途絶えたり、生き残ったりすることを「淘汰」と言います。

「進化」や「優れた特性」というものは、変化した環境によって生き残るか決まる「結果論」であるため、その可能性を高める「多様性」を尊重すべきということでしょう。

同じ進化論を上辺だけ齧って、「優れた特性」を人が勝手に決めて「人工的淘汰」を起こすという「優生学(思想)」とはある種対極にあるものだと考えられます。

こういった「生物学的」な理論を下敷きに「多様性を守ろう」という社会的な思想が生まれて、それが広がっているわけです。私のイメージですが。

次に行きましょう。



2.寛容のパラドクス

みなさんは「寛容のパラドクス」という言葉を知ってるでしょうか?知らなくても一度は疑問に思った事があると思います。

「寛容な社会を作るためには、不寛容に対して不寛容でなければいけない」「お前、不寛容に対して不寛容やったら寛容な社会ちゃうやんけ!」みたいなことですね。

でもこれを許さない事には「寛容な社会」は実現できない。だからしゃーないという話です。

竹原ピストルさんも「俺のいう事を聞いてくれ、俺を含め誰のいう事も聞くなよ」みたいな事を唄ってます。そんな感じの話です。

では「多様性のある社会を作る時、多様性を認めない人を認めてはいけない」のでしょうか?

ここでも「多様性を認めない人がいることも多様性なのだから認めるべきでは?」という疑問が浮かびます。

みなさんはどう思いますか?

「寛容」と同じく「認めない」べきなのでしょうか?それとも「多様性」においては「認める」べきなのでしょうか。

私は多様性においては「認める」べきだと考えています。次の項でなぜそう思うのかを説明していきます。



3.多様性を認めないガラパゴス

ガラパゴス諸島という島があります。

ご存じの方が多いと思いますが、ここにはイグアナやゾウガメといった固有種が生息し、ダーウィンが進化論の着想を得たという話はとても有名です。

この島は生息する種の数は多くなく、多様性と言う面では決して高くありません。

その上、外からの生物の持ち込みを固く禁じており、「多様性を高める行為」を認めていません。恣意的で意地悪な表現ではあると思いますが島は「多様性を認めない」態度を取っているわけです。

「島」という単位で見ると「多様性」は高くないけれど、「世界」という単位で見ると島の固有種が外来種によって淘汰されると「多様性が失われる」ということになるわけですね。

「多様性」とひとことに言ってもどの階層で見るかによって変わってくると言い換えることが出来ます。

「人」という単位で見るのか、「人の行い」という単位で見るのか、「地域」という単位で見るのか、「国」なのか「世界」なのか。

ある単位での「多様性を認めない」という選択が却って、ある単位での「多様性を高める」という事になり得るわけです。

一度視点を高くして考えてみましょう。これは「多様性」にとってどのような影響を与えるのでしょうか。と。



4.世界に一つだけの花

話は変わりますが私はこの歌にとても深い思い入れがあります。

元々はSMAPのアルバムに収録されていた曲で、この曲が大好きになった私と友達数人は音楽の授業における自由課題でこの曲のアカペラをしました。(当時ハモネプも流行っていた)

そのアレンジ等も自分たちで行い、大成功を収めて音楽の成績で「98点」と1位になったのでとても嬉しかった事を記憶しています。

そしてファンの中でもこの曲は人気であったためか、後にシングルカットされることになります。そして誰もが知る歌になったわけですね。

ところでなんですが、みなさんはこの曲をどのように解釈していますか?

「みんなそれぞれ個性があって違うのだから、あなたはありのままで素晴らしい」みたいな感じでしょうか?多くの人はこれだと思います。

私は「みんなそれぞれ個性があって違うのだから、それを尊重すべきであり、その覚悟をひとりひとりもつべきだ」という歌だと思っていました。

この曲が世間で流行っていくたびに私の指からたくさんの感情がこぼれていくような感覚に陥りました。(久々に言った)

どちらが正しいかはマッキーに聞いてみないとわかりません。でも私は後者と思って行動する方が素晴らしい世界になると思います。だから私は後者を選びます。

思えばこのころから「多様性」という言葉を私は大切にしていたのだと思います。



5.多様性は盾たりえるのか

この世の様々な思想やそれに基づいた制度は人を守る「盾」になり、またある時は人を縛り付ける「鎖」や穿つ「矛」になります。

例えば論理は他者の論理を打ち砕く「矛」になり、それから守る「盾」にもなります。

法律は他者の人権を制限する「鎖」になり、そしてそれは他の他者を守る「盾」という働きのためにその振る舞いをします。

自由主義はどうでしょうか?これは自分の権利を守る「盾」になりますね。しかし「矛」や「鎖」の働きはしません。自分を縛る事はありますが、他者に対しては法律にその働きを任せています。

では「多様性」は?

「矛」や「鎖」にはならなさそうですよね。「盾」ならどうでしょうか?わたしはならないと考えます。

「多様性」のためには「多様性を認めない」ことも「多様性」として受け入れることになります。

この価値観はあなたを守りません。

じゃあなんのためにあるのでしょうか?私は誰かを包み込む「毛布」のようなものだと思います。

「あなた」が他の誰かを「包み込む」ためにあるのです。これ以外の使い方なんてできません。自分の行動を決定づけるある種の哲学や信条でしかありません。

私はこのように考えます。

6.終わりに

私は「多様性」という言葉が街で聞かれるようになってとても嬉しかったことを覚えています。しかし使われ方は「矛」や「鎖」としてだった人がほとんどだったと思いますし、今もそうだと感じます。

私の感情は毎日どんどんと零れ落ちています。いつか枯れてくじけてしまいそうになります。

そして、「多様性と調和」をテーマにしたオリンピックの開閉会式の人選において「ふさわしくない」と排除されました。

彼らの言動は「多様性と調和」にふさわしくないと私も思います。控えめにいってクソ野郎です。

しかし「テーマにふさわしくないクソ野郎だから引きずりおろせ」とばかりに声を挙げ、実際に辞めた時は鬼の首を取ったように喜んでいる人たちがたくさん目につきました。

笑っちゃいますよね。

それから「多様性」を理由に「黒人が出ていない作品」や「女性が出ていない作品」などを排除しようとする動きもたくさんあったと感じます。

「全ての属性が揃っている作品」のみになった世界は「多様性」のある世界であると言えるでしょうか?

どこの国にいっても「全ての人種がいて全ての言語を話すことができる」なんて「多様性」と言えるでしょうか?

行きつく先はきっと全人種の混血しかいない英語だけを話せる画一的な世界になるんでしょう。それを「多様性」と呼びましょうか。

「万能性」「多様性」は違います。

本来対極たる「優生思想」のような振る舞いを持って「多様性」を体現しようとする世界は私は狂っていると感じます。

みなさんはどのように考えますか?

今回はみなさんに投げかける形で筆をおきたいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。

ではまたいつか。

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