私の履歴書(出生〜大阪出戻り)

早速2回目の投稿

坪内啓晃
1979年10月7日のお昼に大阪の住友病院で産まれました。
父・母・兄の4人家族 
 幼少期は神戸の東灘区、大阪の枚方で過ごし、保育園に入る時に淀川区の塚本に転居

幼稚園から高校卒業まで

保育園は、西淀川にある聖花保育園へ
当時は人とのコミュニケーションが嫌だった記憶があり、いつも保育園に行く時に泣いていたと聞いてます。

そこからスクスクと大きくなり、塚本小学校・新北野中学校を卒業し、父と一緒にいたいと思い、長野の諏訪という地へ引越し

父のプロフィール
父は自分が生まれる前に東灘区の公務員からテキ屋へ転職(スポーツ新聞の三行広告で応募
※当時は半年に一度、家に帰ってくる生活した。
※当時はバブル経済で公務員の給料が安かったみたいです。
幼少期・少年期・青年期の長期休暇には必ず父の仕事の手伝いで、長野県の農協(Aコープや祭りでの催事を担当)

この時に1番記憶に残っているのが、当時6歳、7歳の時に木曽福島のお祭りで朝8時から夜21時まで金魚すくいとお面の販売で日商10万円を超えたこと
沢山売れると日当がなんと3000円に!!

小さい時から、いつか自分で商売をするんだろうなと思っていたのと、勉強の数学科目が悪すぎた為、商業科にしました。
※算数は得意だったからです。
大阪から長野へと移住という事で最初は友人もいませんでしたが、小学校・中学校で培った悪友達とのコミュニケーションで、難なく馴染む事ができました。
高校時代の1年目は父と自分との2人暮らしの為、学校から帰ると洗濯と掃除は自分が料理は父が担当
土日があれば、諏訪大社上社にあるドライブインで乾物や干物・土産物の露店販売をしていました。
父が忙しい人で、当時はよく家の電気やガスが止まったり、彼女を家に呼んだ時に…借金取りが来たりとなかなかハプニングの多い学生時代でした。

卒業後の進路(長野県)

就職活動が面倒で、父親の仕事に就くという事で卒業を迎え、卒業式が終わった翌日から霧ケ峰ドライブインでの土産物販売と白樺湖池の平ホテル内でのラーメン店の掛け持ち(朝8時〜23時)勤務を週6日
この時ぐらいから事業があまり芳しくなく、給料は2ヶ月不払いとなり、大遅刻を機に父と喧嘩をして退職へ
学生時代にアルバイトをしていた先の社長に相談し、ピザの配達バイトとして採用してもらいました。
※当時は食べるものがなく、塩と水で3〜4日過ごし、たまにドッグフードを食べて飢えを凌いでました。

※ピザ屋のバイトでは、賄いでLサイズのピザを1枚焼いて皆で食べるのが習慣でしたが、自分が出勤の時は社長がいつも気を使ってくれ2枚のピザを焼いてくれてました。(本当に感謝です)

そこで1年ほどアルバイトをし、彼女も出来、仕事と恋愛の充実した時期を過ごしていました。

ただ、その当時は池袋ウエストゲートパークの影響で、チーマーやカラーギャングが流行っており、仲の良い友人達も今でいう反社会の方たちの使いっぱしりをやらされ、そんな友人とつるんでいるとご近所さんからの悪い噂になり、だんだんと距離が空きだし、久しぶりに連絡をすると悪い事をして落ちていく友人達を見るのが嫌になり大阪に戻る事を決意
※当時の彼女には本当にご迷惑をおかけしました。

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そのお金は、他の人につこたって!!