フリーレンのスキゾイド的曲解
今更フリーレンかよ、、、
でも今更だからこそ、!!
葬送のフリーレンをスキゾイド的に曲解してもいいだろうという趣旨である。
(今回スキゾイドがなんぞやという説明は無い。)
さてパーソナリティ的に人間でいうのなら、この物語の主人公フリーレンは相当スキゾイド的素質を持っていると見られる。
ただ、フリーレンはむしろ物語の各所でそのスキゾイド性をかなり素直に表現しているように思える。
というのは、フリーレンは誰の前に居ても繕わないし、仮面も被らないで生きている。
これはむしろ、ニンゲン一般公衆のスキゾイド的振る舞いではないと言える。
エルフだからとか、周りにいる相手が弱者(人間種)だから、長寿だからとか言って終わらせてもいいのだが面白くないだろう。
では、フリーレンが仮面を被るシーンがあっただろうか。いや、ない。(多分)
そこで、、、
対照的にこの物語に仮面を被ってるようなキャラクターが存在しているとしたら?
それは勇者ヒンメルだろう。
このナルチシズムと極端な偽善的存在は、スキゾイドが被る仮面や防衛的人格、また内に秘めたるナルチシズムを表現していると言っても良い。
この勇者ヒンメルこそが、物語の真なるスキゾイドを担っているのではないだろうか。
そう考えてみれば、勇者ヒンメルのスキゾイド性は挙げるとキリがない。
時にヒンメルは自らのナルチシズムを公言する際、ほとんど自虐的に言い換えてジョーク化している。がこれは自らの本心を隠す巧妙な取り繕いと言ってもいい。(それが、たとえフリーレンのための銅像設置であったとしても。)
また、勇者ヒンメルは、魔王討伐という偉業だけでなく「村人達」への小さな偽善を重要視する。ここにも「対人」と繋がることへの微かな執着、またはある種の防衛意識が見られる。
彼は「人間」との直接のつながりではなく、お伽話のような「勇者」としての繋がりを前提にすることによって、強固に巧妙に防衛的距離を担保しつつ対人からの信頼(ある種の愛着のような)を手に入れている。
そして、ヒンメルは物語で分かるように本物の勇者ではない。これは読み替えれば常にヒンメルが偽物として生きている証と言えるのではないだろうか。
つまり、ヒンメルは偽の自己を真の自己とすり替える為に、対人不安による仮面的な防衛街道を歩きながら、魔王討伐という飛躍的偉業(偽自己による)を目指すのだ。
さらには自己の銅像製作によって、名誉の担保を未来的に(生存中や死亡後における)策略し、自己防衛を図ろうとしているのである。
強固な偽の自己によって現実世界を取り固めるということはまさに、真の自己が銅像のように石化されない為に自身の偽自己によって代替するというヒンメルの一大計画だったに違いないだろう。
そう考えると、ヒンメルのフリーレンに対する仕草もいかにも仮面的に思えて仕方がないのである。(最初からフリーレンの存在を認知しているのを隠して誘ったこと、決して届かないように、あるいは大袈裟に振る舞う求愛仕草など、、)
ともかく、、
つまりこの作品には、フリーレンというスキゾイドとヒンメルというスキゾイドが登場することになる。
では、構図としてはどうなのか。
1.フリーレンは真の自己で生きているスキゾイド。
2.ヒンメルは偽の自己を強力に用いているスキゾイド。
(あるいは、フリーレンとヒンメルそのものが一つの人格をスプリットして分け与えられた、偽自己と真の自己キャラクターという分裂そのものの構図なのかもしれないが。)
この構図ならば、
フリーレンはヒンメルという「偽自己」に出会い、その偽自己の死を持ってして、偽自己的な生き方(社交的人間の生き方)が存在すること。もしくは、自分の生き方において真の自己では気づけなかったことがあることに気づく物語であり、
本編のこの旅はフリーレンにすれば、これまでの真の自己のみで生きていたら気づかなかった事に目を向けるための二度目の旅であり、その最果てに、もう一度ヒンメルに出会って新たな自己でヒンメルを眺めてみたいという気持ちがあるのだろう。
つまりスキゾイド的にいえば、
健康な人間の視点というのがある事に気づいた。
それは、学習に値する。
であるならば、それを経てまたヒンメルに出会ってみたい。
私は何かその視点でヒンメルを見た時何かを感じるだろうか。
その時ヒンメルは違って見えるだろうか。
という物語になるのである。
つまりは「葬送のフリーレン」とは、偽自己と真の自己の特殊な関係を魔王討伐という関係になぞらえて物語化し、ある人格(スキゾイド?真の自己?)の成長(学習?)を持って再編する旅物語だと言えるのかもしれない。
皆さんも、フリーレンの物語やキャラクターをスキゾイド的に曲解してみると面白いかも。。