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【進撃の巨人から見る心】54.哲学の素 ~65話~

アニメタイトル:第65話 戦鎚の巨人

あらすじ

タイバー家ヴィリーがパラディ島敵勢力へ戦線布告を宣言しましたが。その直後に、逆に進撃の巨人の襲撃を受けました。

進撃の巨人はヴィリーをなんの躊躇もなく捕食しました。
進撃の巨人はなんの迷いもなく要人が集まるスタジアムを潰しました。
多くの要人、一般市民が死にました。
いきなりの戦争状態です。

ヴィリーの死を見届けると
「ダイバーの務めご立派でした。」とヴィリーの妹ラ―ラダイバーが戦鎚の巨人になります。
進撃の巨人vs戦鎚の巨人です。
しかし戦鎚の巨人が強い。
進撃の巨人絶体絶命です。

実はここまでの展開をダイバー家ヴィリーは想定していました。
ヴィリーは自らの命をかけてここまでの演出をしたのです。
死を覚悟してまでのヴィリーの目的とはなんだったのでしょう。

それはマーレ大国とエルディアを守る事です。

現時点では「スラバ要塞」を巡る戦いのように、いくつもの国が民族が戦争状態にあります。
今までは、マーレ軍はエルディア人の巨人の力を持って世界を牛耳っていましたが、現代は他国の軍備力の技術革新によって、巨人の力は絶対ではありません。
このままでは、マーレ大国は他国によって滅ぼされる日も遠くないでしょう。
そこで、ヴィリーはパラディ島を世界の敵とする事によって、マーレへの敵意を逸らす計画をしたのです。
その為に、世界各国の要人、マスコミをここレベリオ区に集め歴史の真実を伝えました。
敵はパラディ島である事。エレンイエーガーである事と周知させました。
レベリオ区のエルディア人を「被害者」にすることで世間の同情を得る作戦です。
その「被害者」に自分も含める事で、世界を団結させ全世界でパラディ島を叩く。
そしてマーレ王国とエルディアを守る計画です。
エレンが先制攻撃とばかりにレベリオ区で暴れる事は予想していて、あわよくば、戦鎚の巨人をはじめとする、鎧、獣、顎、車力の巨人の力を終結して、エレンを返り撃ちにし、始祖と進撃の巨人の力を奪ってしまおう。という計画です。

その為に。ヴィリー自分の命を捧げたのです。



あれこれ考えてみよう

仮想敵を作ることで団結し、身を守るという方法はよくある作戦です。
国際外交もそう、企業競争もそう、いじめもそう。人間組織の処世術です。
戦国の世であれば、これも常でしょう。

また、エレンの攻撃は想定内で、被害を敢えて受ける事で無能な軍部上層部を一か所に集めて、一掃する目的もあったようです。
例えば、長篠の戦いで大敗をした武田軍。
織田徳川連合軍の鉄砲と、時代遅れの武田騎馬隊の突撃というイメージがありますが、見方を変えて、武田勝頼による口うるさく、古い家臣団の一掃作戦だったと考える事はできないでしょうか?
現に長篠の戦いで武田軍は大敗したものの、家臣団を一新し、領土を拡大しています。

視点を変えると新しい物語が展開します。

それにしてもこのヴィリーの死にざまが理解できません。
あまりにも犠牲が大きすぎますし、自らの命をこんなにもあっさりと投げだす必要があったのでしょうか。
疑問です。

この作戦を周知していたのは戦鎚の巨人であるラ―ラダイバーをはじめとするタイバー家の大人達と、マガト隊長くらいだと思われます。
進撃の巨人を戦鎚の巨人とマガト軍で制圧し、あわよくば進撃と始祖の巨人の能力を捕食できる自信があったのでしょうか。
それならば、最低限、巨人の能力を有するマーレ戦士達には作戦を伝えるべきでしょう。
しかしマーレの戦士たちにもはこの作戦は伝えられていません。
伝えられていたのなら、あんなに簡単に背の高い兵士にはついていかないし、落とし穴には落ちていないでしょう。
なにかヴィリーには死ぬ事に意義を見いだしていたような気がしてなりません。

例えば戊辰戦争のヒーロー西郷隆盛を思います。
明治政府になって生き場を無くした武士達が西郷隆盛を持ちあげて反乱を起こします。
それが西南戦争です。
西郷軍は明治政府軍に追い詰められます。
しかし、西郷は自決のタイミングはいくらでもあったのでしょうが最後の最期まで戦い続けます。
それは、最後の最期まで今後の「日本国」を思うからだったのではないでしょうか。
西郷は西郷を倒そうとする明治政府軍に、今後の日本軍に頼もしさを感じつつ。
「お前たちは西郷隆盛を討ったんだという自信」を植え付けるように、戦って戦って死んでいくのです。
自分の死を自分を討つ者たちに捧げ、今後の日本を託したのではないでしょうか。

歴史のは史実が点々と散らばり、その点と点を結ぶ物語は読み手の自由です。
同じく進撃の巨人は多くの伏線が散らばり、その点と点を結ぶ妄想で物語が無現に膨らみます。
時には矛盾点や理解できない点もまた物語を膨らませる要素となります。

その物語の膨らみの中に気づきであり、それが哲学の素なのかもしれません。

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