まど・みちおはお酒のアテにはなりませんわよ

ごきげんよう、現代詩お嬢様でしてよ。

先日もわたくし、お酒を頂きながら何か読みましょうといたしましたの。執事の小林に借りていました『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎編 岩波書店)をお酒のアテにと思ったのですけど、いけませんわね。まどの詩はなんと申しましょうか、お酒でふわふわしながら拝読するものではございませんわね。


ない
今が今 これらの草や木を
草として
木として
こんなに栄えさせてくれている
その肝心なものの姿が
どうして ないのだろう
と 気がつくことができないほどに
あっけらかんと
こんなにして消えているのか
人間の視界からは
いつも肝心かなめなものが

『まど・みちお少年詩集 いいけしき』(理論社,1981)

ぎゅって凝縮されているんですもの、その凝縮がぐっと、ごりっと、わたくしの意識にめり込んでくるようでしたわ。平易な文章で書かれているからこそ研ぎ澄まされた意図の刃。

小林が言いますには「まどは蓮の葉の雫に射す光のような『境地』ですからね」とのことでしたけど、そうした表現はどうなのでしょう、あまりピンときませんでしたけど、「境地」というのはとても素敵な表現と存じますわ。

「境地」に立ってらっしゃったまど・みちおにとって「境地」から見渡されるものを読者に届けようといたしますなら余計なレトリックはどんどんそぎ落とされていったのでございましょうね。無駄のない言葉がまるでなんの意図もなくそこにあるように書かれている、そのようにお書きになったまどの意図。

お酒、その夜は檸檬堂でしたけれど、ちっとも酔えませんでしたわ。その代わり、まどに突き付けられた意図の刃とにらめっこ、ギラギラした純粋な境地の切先に見つめられて、わたくし、いっそう詩が好きになりましたわ。

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