にき

小林紀晴の写真集「孵化する夜の鳴き声」を買った。青山ブックセンターで立ち読みして、なんとなく惹かれた。
いまは個人的に「日本」に興味があって、白川静とか、柳田國男、宮本常一、中上健次などを読んでいる。その流れとして、日本の祭を写しているこの写真集を買ってみた。
小林紀晴について調べたら、古屋誠一という写真家に執着があったらしく、その人についての本を書いていると知った。
古谷誠一はメモワールというシリーズで知られた写真家だ。オーストリアに23で渡り、向こうの女性と結婚した。その妻クリスティーネは精神を病み、飛び降り自殺する。古谷はそれ以降、つい最近まで「メモワール」シリーズで妻の写真を編集して発表していた。

荒木経惟とかもだが、写真家とか画家って因果なもんだと思う。
芸大生だった頃、美術界隈にあまりにもまともな人間が少なくていつもがっかりしていた。昔の有名な画家だってだいたいのそいつのまわりで女が自殺していたりするし(ボナールですら)、芸大の教授には薬中とかアル中、生徒に手を出す不届き者も多かった。その上、ふつうに働いてお金を稼ぎ飯を食って生きている人をどこかでばかにしている。クズである。
芸術のもとにくれば「業」なんてかっこいい言い方が罷り通ってしまうけど、だからダメなんだとおもう。人間と血の通った関係を築けない異常な人間が拠り所を求めるのが芸術の神のお膝元なのだ。
でもそんなものはまやかしでしかない。
わたし自身にもそういう面があるから、創作の世界から離れることはできないでいる。ただ、そういう自分の「業」を「げーじゅつかの業です。罪深い、頭が高い」なんて陶酔したくない気持ちがある。
ひとを愛せない、じぶんを愛せない、その惨めさを噛み締めない人間に、生きた芸術なんかつくれないと思う。


語弊をおそれずにいえば、わたしは、古屋はクリスティーネという人間に興味があったようにはおもえない。彼は「二度と日本には戻らない」と思いながら日本を発った。その思いの根のほうに本物の傷とトラウマはあるのではないか。日本に置いてきたダセー古屋のなかに、大切なことがあるんじゃないかな。しかし彼はそれを見ることはしなかった。捨てたのである。だから嗜癖のように、妻の死という傷を繰り返し味わっている。
自分のなかの傷や痛みというのは、意図的に「捨てた」ところで切り離せるものではない。そこに向き合うか否かが芸術の骨子であるし、ひいては生きることの骨だとおもっている。すごい作品を残さなくたって、人生におけるおのれの血肉の痛みを引き受けて生きたことが魂の価値だとわたしは思う。
荒木はそういう残酷さについて多少自覚的に見える。写真の名目で、自分の残酷さによって妻を苦しめたことに。わたしは荒木の写真で泣いた。彼の写真が良いことに疑いはない。でも、もうそういう、芸術家が人としてクズな部分を業とかなんとかいうのやめようぜとはずっとおもってる。

写真家とモデルのような関係は世の中にたくさんある。
メンヘラのかわいい女と自称弱者のオタク男がくっつくとき、そこには共犯関係がある。実はオタクの男がきもいだけではない。
偶像化され、偶像化する関係にはえもいわれぬ魅力がある。ミューズ、アイドル、呼び方はなんでもいいけれど、誰かを崇拝し崇拝されることはとてもきもちいい。血のかよった人間の体臭やめんどうくささみたいなものがなくなったように錯覚できる。救われたような気分になる。

アニメキャラや理想の美少女になぞらえて自分を表現し、その表現されたつごうのよい自己に陶酔する他者とつながることで、おのれの幻想を強化する。でもそれは幻想にすぎないから、「みんなほんとうのわたしを理解しない」と苦しみ続ける。そういうひとたちは、30を超えてある程度現実に抗えない醜さを持つことで落ち着くこともあるし、その醜さを嫌って死ぬこともあるし、毒親になることもあるのだろうけれど、きわめて独善的な、他者のいない態度ではあると思う。

ジブリの「風立ちぬ」では、菜穂子は主人公にきれいな姿しか見せずに死ぬ。お互いがお互いのロマンだけを見て死んでいった話だと思った。女優と写真家の間にも、そういうお互いの美に対するエゴが絆として横たわっていたのではないかとおもう。まあそれを業とするなら業だろう。

ツイッターやアニメに侵食された日本という国では、アニメキャラのような「鋳型」が横行し、人間が言葉の枠の中に自分を窮屈そうに押し込め、着ぐるみを着て闊歩している。そのなかをのぞきこめば汗をかき糞尿を垂れ流す人間の血肉がつまっているというのに。

うつくしく撮られた/描かれた自分が残るというのは女にとって幸せなことかもしれないけれど、そもうつくしさというのは、ほとんど降霊術にちかいものとして人間にやどるたぐいの性質なのではないか。だからうつくしく撮られれば撮られるほどに、その作品は神の媒質のような様相をもっていくし、そこにはミューズとされた女性自身の人格や命など邪魔でしかなくなっていく。人間性の冒涜と生贄の上になりたつうつくしさというものがあるとして、わたしは作者とその共犯者にはある程度自覚的であってほしいと思っている。

こういうことを突き詰めて考えると、日本語のありかたとか、明治以降の欧米による文化への侵食についても考えたくなるけど、めんどうだからここにはかかない。


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