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ミヒャエル・エンデ『モモ』(4)床屋のフージー氏と灰色の男たち

灰色の男たちが、大都会で恐ろしい「計画」を実行していました。たとえば、床屋のフージー氏の場合はこうです。

その日、フージー氏はひとりでお店にいました。

「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」

深いため息をつくように落ち込んでいます。

「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。」
ほんとうは、フージー氏はべつにおしゃべりがきらいではありませんでした。
けれどそんなフージー氏にも、なにもかもがつまらなく思えるときがあります。そういうことは、だれにでもあるものです。
「おれは人生をあやまった。」フージー氏は考えました。
「おれはなにものになれた? たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、もしもちゃんとしたくらしができてたら、」

そんな風に考えます。

なんとなくりっぱそうな生活、
たとえば週刊誌にのっているようなしゃれた生活、そういうものをばくぜんと思いえがいていたにすぎません。
ちょうどそのとき、しゃれた型の灰色の車が走ってきて、フージー氏の理髪店のまえでとまりました。

フージー氏はさむけを覚えるのですが、車から降りてきた灰色の男に話しかけます。

灰色の紳士はにこりともせずに、ぞっとするほど抑揚のない、いうなれば灰色の声で言いました。
「わたくしは時間貯蓄銀行からきました。外交員のナンバーXYQ/384/bという者です。あなたは、わたくしどもの銀行に口座をひらきたいとお考えですね?」

フージー氏は戸惑いました。灰色の男はメモ帳を開き、またぱちっと閉じました。

「死んでしまえば、まるであなたなんかもともといなかったとでもいうように、みんなにわすれられてしまう。」
「ようするにあなたがひつようとしているのは、時間だ。そうでしょう?」
「まさにそのことを、いましがた考えていたところです。」フージー氏は口ごもりながらこたえて、

灰色の男は、理髪店の鏡のうえに数字を書きはじめました。

「六十かける六十で三千六百。つまり一時間は三千六百秒です。」
「十年ですと、三億一千五百三十六万秒。
フージーさん、あなたはどれくらい生きるとお思いですか?」
「けっこう。ではすくなめに七十歳までとして計算してみましょう」
灰色の紳士はこの数を鏡に大きく書きました。
2,207,520,000秒
そしてその下になん本も下線をひいてから言いました。
「これがつまり、フージーさん、あなたがおもちの財産です。」

それから、灰色の男はフージー氏の睡眠時間、三度の食事の時間、インコの世話をする時間、耳の聞こえないお母さんをあいてにしゃべる時間、本や映画、合唱の時間などなどをすべて計算しました。

「もうすぐおわりますよ。」
「われわれの生きている現代世界では、」
「もう秘密なんてものはありえない。」

そして最後に、フージー氏が足のわるいダリア嬢にこっそりと会いに行き、花をとどける時間を算出しました。

この時、フージー氏は42歳でした。一方、灰色の男が計算した「むだな時間」の数字もちょうど42年分でした。

差し引き「0 000 000 000秒」です。

「これがつまり、これまでのおれの人生の総決算なのか。」フージー氏はうちひしがれた気分で考えました。

灰色の男は、「時間の倹約」を勧めます。「一日二時間の倹約をすると、」……。

灰色の男はひとしきり説明して、車で去りました。

フージー氏は、そのときの記憶を失ってしまうのですが、時間の倹約だけははじめました。

その日はじめての客が来ると、フージー氏はぶすっとして無言で早く仕上げました。

ダリア嬢には、みじかい事務的な手紙を書いて、ひまがないからもう行けないと知らせました。セキセイインコは、ペット屋に売りはらいました。お母さんは、世話のゆきとどいた、でも費用の安い養老院にほうりこんで、月に一回たずねることにしました。
フージー氏はだんだんとおこりっぽい、おちつきのない人になってきました。

こうして、大都会の風景は変わっていきました。


『モモ』ミヒャエル・エンデ、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005


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