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フランクル医師が見つけた生の転換 - 人生からの問いかけ

アウシュヴィッツ強制収容所の体験を綴った『夜と霧』でも有名な精神科医、V.E.フランクルのよく知られた言葉を紹介します。

彼はある発見を人生における「コペルニクス的」転回と呼びます。

その転回を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか(傍点)」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。

『それでも人生にイエスと言う』V.E.フランクル

これは精神科医であり、思想家でもあるフランクルの重要な発見でした。では、どういう意味でしょうか? 少し遡って見てみましょう。


もともと、フランクルは精神科医として仕事をしていましたが、ユダヤ人であり、第二次大戦中には、ドイツのナチスによって強制収容所に入れられます。

その回顧録が『夜と霧』という本であり、日本でもベストセラーになりました。


さて、強制収容所という過酷な環境のなかで(運が悪ければ殺される。良くても強制労働。持ち物はすべて奪われる)、フランクルが気づいたことがあります。

すべては、そのひとがどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、そのひとがどんな人間であるか「だけ」だったのです。なんといっても、そうです!

なにを成し遂げてきたか、どういう社会的な立場にあるか等々はどうでもよくなってしまいました。

そして、「どういう人間であるか」だけが問われる状況になりました。

まさに強制収容所において、

最後の最後まで問題であり続けたのは、人間でした。

「裸の」人間でした。この数年間に、すべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。

このようにすべての属性を剥ぎ取られた「裸の人間」のあり方を、哲学では「実存」とも呼びます。本源的にこのひとでしかない、一個の人間存在、といった意味です。

その反対が「大衆のなかのひとり」だとフランクルは言います。つまり、何者でもない匿名の誰かという存在です。

この実存の体験が、冒頭の言葉の発見につながっていきます。


ところで、フランクルはユダヤ人ですが、自分たちの民族に伝わるユニークな神話を紹介しています。

ある古い神話は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっていると言い切っています。たった三十六人です。消えてしまいそうなぐらい少ない人数です。それでも、全世界が道徳的に成り立つことが保証されるのです。

これはユダヤ教の聖典による教えだそうです。

そのぐらい、

すべては、ひとりひとりの人間にかかっている(傍点)ということです。


ここで最初の名言に戻ります。もう一度、同じ文章を載せます。

その転回を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。

つまり、たとえて言えば、

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