11/17 内から外へ向かうとき
このエッセイブログをスタートした昨日、私にとって地味に、でも人生を結構大きく変えるくらいの、衝撃的なことが起こった。
かれこれ10年近く愛用してきたスマホアプリの「100年日記」が、なんと天に召されたのだ。
100年日記は、生まれてから死ぬまですべての思い出、まさに100年分を振り返ることができる画期的な日記アプリ。思い出を残すのはもちろん、嬉しかったことや悲しかったことを綴ったり、とことん内観する時に使ったり、未来日記として使ってみたり、ダイエット中はレコーディングしたり、はたまた幼い頃のフィルム写真も取り込んで過去を遡って記録したり…。
私の人生の相棒はこいつと言えるくらいに、それはもう毎日愛用していた。もちろん、これから先もずっと使うつもりでいた。
そのアプリが…突然、飛んだのだ。
何度アプリを立ち上げようにも、真っ白な画面になり、時間が立つと…落ちる。時間を空けてみても…同じだ。私は一人で静かに、冷や汗をかいた。再起動したり、対処法を検索したり、何度も何度も試みたけれど、まったくダメ。ついには同じような境遇の方の口コミを数件見つけて、ああ、これは終わったな…と、ずどーーーんと、心に言いようのない重みがのし掛かった。
う、うわぁ〜〜〜〜…。めちゃくちゃ、ショック。この先、どうやって生きていけばいいの…
私はなかなかの三日坊主で、熱しやすく冷めやすい性格だけれど、日記をつけることだけは小学生の頃から大好きで。唯一ずっと続けられてきたことと言えば、自信をもって「日記!」と言えた。それなのに、だ。
幸い、今年の2月分まではバックアップをとっていたので、そこまでは別のソフトでなんとか振り返ることはできる。でも2月以降の分は…もう見られない。特にここ数週間の日記はたくさん書き込んで、私にとって大切な想いを吐露しまくっていたので、それが一瞬で消えたことに、呆然としてしまった。
いや、
使えなくなった理由は、実はわかってる。
私は今、人生のターニングポイントのような時期に差し掛かっていて、過去の精算みたいなことをあれこれとしている最中だった。そして、数年前の闇期の頃に書いていた誰にも見せないアメブロを、昨日思い立って、完全削除しようとしていた。でも一応記録として、100年日記にコピペを残してから、削除しようとしていた。
いざコピペを進めていくと…思いのほかブログ記事は山ほどあって、ため込んだヘドロのように、どわぁ〜〜〜〜っと大量の言葉の渦が押し寄せてきた。そして、それらを見ないようにしつつも、無意識に視覚から読み込んでいたようで…当時の感情が思い出されてきて、心が少しずつ、じわじわと沈んでいった。そしたら、私の心境を察したかのように、急にアプリが重くなって…あれ…あれれ…?と思っているうちに、そのまま100年日記はご臨終。
なんだか神さまに、“もうわかったでしょう。過去の重い自分は手放しなさいね。”って言われた気がした。
“わざわざ思い出して、気分が悪くなる必要はないんだよ。そんなことよりも、今のあなた。今のあなたが、楽しめることをしなさい。気分が明るくなる方に向かっていきなさい。”って、きっと言われたんだ…!
そして私は、アメブロの記事を振り返ることなく一気に消した。
そして、100年日記も手放した。
私は「ただただ呼吸をするように、エッセイブログを綴りつづける人生にしたいな!」なんて、夢のまた夢みたいに、心のどこかで思ってきた。
そしてそう思いながらも、自分を表現することに臆病で怖がりで、本当にやりたいことを誰にも言えないまま、隠れながら目の前の仕事をして、誰かの役に立っているフリをして生きてきた。誰にも見られず「100年日記」で自分と対話することばかりを心の拠り所にして、どんどん内側に言葉をため込んできた。
だからこそ。
いつまでも内に籠もっている私を見かねた神さまが、半ば強制的に、このエッセイブログをスタートさせてくれた、と本気で思っている。自分では、10年来の相棒である100年日記を手放すなんて方法、思いもしなかったんだもの。100年日記で続けてきたことを、外の世界でしなさい、ということ。
だからこの合図をきっかけに、これからここで、たくさん言葉を紡いでいこうと思う。どうなるかわからないけど、どこまでも自由に、気の向くままに、日記をしたためていこうと思う。
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