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時空を越えるアメリカンドッグ

たまに何の前触れもなく、「なんかジャンキーなもの食べたいなあ」と思うときがある。

その夕方もそんなときで、食材の買い出しで近所のスーパーにいたわたしは、自分のごほうびになにかジャンキーなものを買ってやろうと決めた。

“家族の夕飯づくり”という地味で欠かせないミッションにとりかかるためには、まずそのための燃料が必要なのである。

さあ何にしよう。ジャンキージャンキー。なんだろう、ポテトチップス?今日の気分にはちょっと違う。唐揚げ? ドーナツ? ……うーん、惜しい気がするけれど、今日はなんだかもうちょっと、最近食べていなくて、特別感があるものがいい。

そんなことを考えていて、ものすごく唐突に「あ、アメリカンドッグ!」と思った。

それはたぶん、ちょっと前に見かけた仲 高宏さんのこのエッセイが、わたしの脳内にひっそりと保存されていたからだと思う。

このnoteを読んだとき、「ああ、アメリカンドッグって、子どものころ以来、ひさしく食べていないなあ」と思ったのだ。

あの"へにょっ"としたソーセージが良いのだと思う。

というなんともたまらない書き出しを読んで、ああそうだっけ、アメリカンドッグのソーセージってへにょってしていたのだっけと思い出そうとしてみたのだけれど、全然思い出せない。そのくらい、わたしが最後にアメリカンドッグを食べてから長い月日が過ぎていた。

食べていないなあ、アメリカンドッグ。ああ、確かに「プールサイド」ってイメージあるなあ。夏の日差しと、肌に貼り付く水着の感触をぼんやりと思い出す。

文中で仲さんと娘さん、奥さんとのやりとりに心を和ませつつ、なつかしいなあと思いながら、エッセイを読み終えるころにはすっかりアメリカンドッグが食べたくなっていた。

仲さんの描写力とユーモアに、まんまとやられている。

* * *

そして案外そういう感情は、心の奥にちゃっかりしまわれているものだ。

「そうだ、今日こそアメリカンドッグじゃないか」。そう思い立つともはやそれ以外は考えられなくなり、わたしは意気揚々とスーパーのお惣菜コーナーに行き、温められたショーケースに並んでいるそれを手にとった。

家へ帰り、オーブントースターでほどよくカリッと温めて、スーパーでもらったケチャップとマスタードをぷちゅう、と絞り出す。誰の目も気にせず、こどものころと同じように大口を開けて、ガブリ。

ああ、これだあ。アメリカンドッグ。こどものころにも、特別な日にしか買ってもらえなかったこの味。まさにわたしが今日求めていたジャンキーな味。いまも昔もうっすら抱くその背徳感が、またこの美味しさを際立てる。

もぐもぐとアメリカンドッグをかんでいると、小学生くらいの自分が頭に浮かぶ。そこからもう一世代分、おとなになって、子育てをしている今の自分。流れてきた月日と、いろんな変化にちょっぴり気が遠くなる。

でもアメリカンドッグは変わっていなかった。なつかしさに切なくなると同時に、なんだかとてもほっとした。君は、期待を裏切らず、いまも君だった。変わらない、ってことのすごさを思う。

アメリカンドッグのソーセージは、仲さんの言う通り、見事に「へにょっ」としていた。時空を越えてそれを共有していることが、なんだかおもしろかった。


(おわり)


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