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その緑色とその緑色は同じかどうか。

こどものころは難しい哲学なんて何も知らなかったけれど、「自分の目を通してしか見ることのできない世界」というものが不思議で不思議でたまらなくて、それに対する疑問をいちいち持つことができていた、と思う。

色の話も、そのひとつ。

「だからね、このイチゴは赤いんだけど、おかあさんがみてる赤色が、わたしがみてる赤色……っていうかわたしが『赤』って思ってる赤色?とまったく同じ色なのかは、わからないよね!」というような話を、だれでも一度はしたことがあるのではないだろうか。

みな、自分の中での「これは赤色」「これは黄色」のような認識をもっているけれど、はたして目の前のイチゴやバナナや、見ているすべてのものが同じに見えているかはわからないじゃん!という話。

もっといえば、私のいう「黄色」は、おかあさんには「(私にとっての)緑色」に見えているかもしれない。目の前の物体の、光の反射によって見える色が、自分の頭のなかで「●●色」という言葉で認識されているだけだ。

そういう、日常のなかにあたりまえにあることに対する感覚というのは、意識していても近ごろはだいぶさびついてしまって、こどものころの自分にはとうていかなわない。

でもそんな感覚があると、仕事のやりとりでイライラすることも少なくなる。人は自分の目を通して、つまり自分の価値基準を通してしか世界を認識できないということがベースにあると、自分でない他のだれかに必要以上の期待をせずにすむので、結果的に自分がラクである。

例えば「なるはやで」の定義が人によって違うことによって生まれるイライラは、かわいい例。ちょっと自分が気をつければ、その「なるはや」がその人にとって数時間をさすのか、2、3日をさすのか、確認できるのだから。そうしてそれを確認すれば「なるはやっていったじゃないですか!」「いや、だからなるはやでやったのに……」という、相互イライラは回避できる。

何度も思うが、人はほんとうに、自分の視点でしか世の中を見られない。何も地球の裏側に行かなくても、同じ職場でも、家族でも、同じ空間にいながら、隣の人がみているその空間はまったく異なるのかもしれない。

こどものころはだれしも、きっとそういう感覚をもっていたはず。忙しくなって、「あたりまえの世の中」がふえてゆくと、だんだんギシギシ、さびついてくる。ふと気づいたときに、ああ、そうだったそうだったと、きゅるりきゅるり、磨き直してゆきたいものです。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。