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その文章は正直か

作品づくりにおいてはいつも「真実は何か」を探っていくのだと、過去にテレビで宇多田ヒカルが言っていた。

そのドキュメンタリーでは、彼女が曲をつくる現場を密着取材していて、はじめて見るその制作風景はとても地道であった。

素人目線ではすでに完成度の高い曲ができあがっている、と感じるその段階からも、わずかな音の流れやリズムの入れ方、歌詞の一言一句を、いくどもいくども試行錯誤して、リミットぎりぎりまで苦悩していた。

もはや、わたしには変更前後で違いがわからないレベルでもある。けれど彼女の中での「真実の追求」を、彼女はぎりぎりまで続けていた。

* * *

その姿がとても印象的で、いまでもふと、文章を書いているときに彼女のことばを思い出す。

そうはいっても、彼女の言う「真実とは何か」の意味を、わたしが理解しているとはとても言えないだろう。

置かれている立場がちがうし、背負っているものもちがう。何もかも違うから、「彼女がこう言っているから、自分もこうしているんです!」だなんて恐れ多すぎてとても言えない。そもそものことばの意味を、自分が正しく理解できているかすら自信がない。

だからこれは完全に自分の解釈だ。彼女が同じように思っているとはかぎらない。彼女のことばをもとに、わたしが勝手に考えていることだと理解していただければありがたい。

前置きが長くなってしまった。ええと、そうそう、文章を書いているとき、「真実は何か」という言葉がふと、頭をよぎるときがあるという話だ。

それはたいてい、文章の展開に行き詰まっているときや、書くには書けているのだけれどなんだかうわすべっている気がする、そんなときに多い。

「真実は何か」

そんなときにふと、この言葉が降りてきて、自分に問うことになる。

あなたがいま書いているのは、嘘いつわりなく自分の中の正直な気持ちだと言えるのか。

だれかによく見られたいがために、都合よく自分の中の気持ちを塗り替えていないか。

何がきっかけで、これを書こうと思ったのか。きっかけになったときのその気持ちは、ほんとうにあなたがいま書き進めている、その文章で嘘がないと言えるか。きれいに、体よく、まとめようとしていないか。

そこまで降りていって、動機となった出来事が起きたときに、自分の中に沸き起こった感情をもういちど丁寧に自覚してみると、自然と筆がまた進み出すことがある。

そうだ、ほんとうはこうだ。こうだった。

書いている間に歪んで、なぜだかきれいにまとめようとしていたことに気づく。きれいにまとめようとして、自分の正直な気持ちとわずかにズレていたから、書きよどんでいたのかもしれないと。

気持ちをことばにしたくて、でもなぜか書きよどんでいるとき、わたしは真実に到達できていない。

* * *

たとえば12月に、こんなnoteを書いた。

実はこれ、Evernoteに書いた下書きの時点のタイトルは「自分にとって大変なら、大変」だった。

そのメモを書き留めた時点では、わたしはべつに、自分のなかに嘘をついているつもりなんて全然なかった。

「相対的にみたらもっと大変な人はいるけれど、自分にとって大変なら、大変でいいんだよ」。そんなメッセージを発信することで勇気づけられるひともいるかもしれないし。そんな偉そうな思いも、きっと心のどこかにはあったのだと思う。

でも実際に文章にしていく過程で、途中からなんだかすっきりしなくて、もやもやをうまく消化できず、書きよどんでしまった。

そこで脳内に、パッ、とあの言葉が浮かんだ。

「真実は何か」

かみくだいていえば先のとおり、わたしのなかの解釈では「自分の気持ちに正直な文章か」「嘘はないか」を問う言葉である。

そうしてもう一度、なぜ今回このエピソードを書きたいと思ったのか、その気持ちに自分のなかでもう一度、向き合ってみた。

その中で気づいたのが、ああ、わたし全然、「自分にとって大変なら、大変でいいんだよ」ということばに、自分自信が納得しきれていないんじゃないか、ということだった。

真実はどちらかといえば「わたしはそうやって言ってほしい」だったのだ。

「ひとと比べなくていい」と自分に言い聞かせながら、結局自分のなかにも、ほんとうはひとと比べてしまっている部分があり、そんな自分が嫌で、認めたくなくて、「自分にとって大変なら大変でいいんだよ」という、きれいなことばに、無理やりまとめようとしていたのだ。

だから真実は、「自分のなかの気持ちの矛盾が苦しい」だった。でもそういう気持ちはまとまらなくて、結論なんてなくて、文章を書いていても、常に水面をゆらゆら揺れているがごとく、不安定で。きっと読むひとにとっては、「結局何が言いたいのかわからない」と感じるひともいるだろう。

そうは思ったけれど、正直になれば文章を書き進めることができた。内にあった気持ちが、わいて出るように。

その勢いを感じながら、ああ、わたしはやっぱり最初、真実に到達しないまま上辺をきれいにまとめようとしていたんだな、とまた自覚した。

* * *

わたしたちはどうも、うまくまとめる、ことに慣れてしまっている。

とくにある程度、仕事で文章を書くようなひとたちは、まとめることに慣れているし、とても上手だ。それは周りを見ていて、そう感じる。

わたしも、商業的な案件で褒められるのはむしろそこだった。「あのだらだらした話を、かっこよくまとめてくださって感動しました!」とか、「あの情報から、よく読める記事にまとめたね」とか。商業ライターにとって、まとめ力は確かに、重要な力のひとつだとは思うのだ。

でもだから、noteのような場では「まとまらない気持ち」を極力そのまま、ことばにし続けていきたいといつも思う。そもそもわたしがnoteをはじめたきっかけがそこにあるからだ。

まとまってたまるか。すべてに結論なんてあったら世界はもう終わってる。日々いろんなことを考えて、いろいろな気持ちが書き留められることもなく通り過ぎていって、気づけば1日、数ヵ月、1年、10年と月日が過ぎてゆく。

とくに育児なんて正解の見えないことの連続で、こうすればいいとか、ああすればいいとか、絶対に断言はしたくない。正解なんておかれている状況によって違うし、だれかの家の正解がその家の正解とは全然限らないし、そもそも正解なんてたぶんないし。

それよりもわたしは、商業的には何も価値はないかもしれないけれど、流れていってしまう正直な気持ちをここに書き留めておきたい。

それに、同じように、いろんなひとのいろんな日常のなかで流れてゆく、正直な気持ちが読みたいと思う。ああ、そうだよね、よかった、そうだよねと安心したり、へえ、そんなことを考えているひともいるのねと驚いたり。ひとに話すような内容じゃないよね、ということほど、読んでいて魅力的なように思う。

さんざんえらそうに書いてきたけれど、こうやって書くのは、正直に書くってのはなかなかむずかしいものだよねと、常々思っているからでもある。正直に書こう、と思っていても、ついつい人間ってやつは、見栄をはりたくなったり、かっこよく見せたくなったり、するから。

それはべつに悪いことじゃない。ただ、わたしは、少なくともわたしのnoteにおいては、正直をたいせつにしていきたいなあと思うというだけの話だ。

そしてこうやって自分に言い聞かせていないと、読む人がじわじわ増えてくださると、どうもうわべだけの記事を書こうとしてしまうのがライターの端くれとしての性質でもあるから、そうならないように、あえてこうやって宣言しておこう、というのが、今日の正直な気持ち。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。