おててつないで
寝室にはいると、娘をひざにちょこんと座らせ、絵本を読む。
娘の自由すぎるページめくりに翻弄されながら、ひとしきり読み終えたころ、「そろそろねんねしよっか。電気消していい?」と問う。
まだ読み足りないときは首を横にふるが、たいていは「う!」と言って自らわたしのひざをおり、自分の布団にぼふっ、とうつぶせになる。
そんな毎晩のルーティン。
* * *
そこからトントンしたり、子守唄をうたったり、ぐるんぐるん回る娘にアタックされたり、体の上を横切られてオエッってなったりしながら過ごすのだけれど。
でも最近は、疲れもあってかおとなしくうつぶせのままになっていることも多くて、そんなときには新しいルーティンが生まれつつある。
「おててつないで寝よっか」
そう声をかけると、娘がうつぶせ姿勢のまま、すっと手を差し出してくれるようになったのだ。
まだことばを話さない彼女の、たしかな意志をそこに感じて、母は心がぽっとあたたまる。
「わぁ、うれしい。ありがとう」
スターに握手を求めて手を差し出されたファンのごとく、純粋にキュンキュンして喜ぶ母。差し出された娘の手に、あらいいんですかむふふ、とそっと触れる。
まだ皮膚が薄くて、ふにふにとやわらかい。でも赤ちゃんのころと比べると1日1日大きくなりつづけている、その手。
ひと肌の温度がそこにはあって、わたしの手をすっぽりと重ねると、あたたかい空気の層が膜のように生まれる。
触れているのは手だけなのに、その先の娘の体全体と、ぬくもりが溶け合っていくみたい。
やわらかくて、あったかくて、やさしい。
その感触がとても好きだ。
* * *
ひとはどんなときに手をつなぐのか。
親子、友だち、恋人同士、ひと混みでバラバラにならないように。
きれいにいえば、信頼や愛情の証。
ちょっと見方を変えれば、安全確保や、相手の行動を制限するための手段。親が道路をわたるときに子の手をひくのは、後者の意味が強いだろう。
はたまた親子でも恋人でも、信頼や愛情だと思っていたはずが、いつしか束縛にすりかわっている、なんてこともあるかもしれない。
* * *
そうか、だからこんなにも愛しいのか……。
書きながらそう思った。夜、ねむるときに手をつなぐことは、純粋に「好きだよ」「信頼しているよ」の気持ちを伝えてきてくれるから。
ふだん、街なかで「ほら、危ない!」と手をひくことは多いし、むしろ娘はそれを嫌がって泣く。自分の行動の自由を奪われることが嫌いだからだ。
行為としては等しく手に触れるというものなのに、そこにある感情はさまざま。不思議なものである。
* * *
そんな娘がきのうの晩は、わたしが何もいわないうちから、自ら片手をすっと差し出してきてくれた。ことばをもたない彼女の、静かな意思表示。
「わぁ、うれしい、おててつないでくれるの? うれしいなあ!」
スターが自ら差し出してくれた手に、ファンはどきどきと動揺する。
いつか彼女も母の手なんてにぎらない日が来るし、わたしも彼女の行動を制限するための(精神的な)手つなぎをしつづけないようにしたいな、という思いはもちろんある。自分の道は自分で見つけてほしい、とも思っている。
だから数年後にはちがう葛藤を抱えているのだろうなあと思いながら、でもいまは純粋に、目の前の小さな手のぬくもりを思う存分に味わっていたい。
差し出された手にほおずりする勢いで、すりよって手をかさねる。
あまりにかわいくて両手で包み込んだら、暑かったのか「それはtoo much!」とでもいわんばかりに片手を振り払われた。ちえっ。
気を取り直して、もういちど。
その小さな手のひらに、そっと控えめに、自分の手をかさねて。
体温と体温に包まれた、やわらかくてあたたかな、うすい空気の層を感じながら目を閉じた。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。