ささやかすぎるけれど、一大事(娘のトイレデビュー記録)
今日はひたすら、娘のトイレデビューについて熱く語る。
いろいろダイレクトな表現で書くので、食事中の方や苦手な方はどうかスキップいただきたい。
* * *
月曜日、もうすぐ2歳になる娘が初めて、自宅のトイレに座って用を足すことに成功した。
ええ、いまさら?!と思われる方もいるかもしれないが、まあ時期は人それぞれ。ちなみに娘は、保育園の幼児専用便座では数ヵ月前から「ちゃんと座っておしっこできてますよ〜」と先生からも報告を受けていた。しかし、なぜか自宅のトイレには頑なに入りたがらなかったのだ。
古いマンションなので、窓もなく狭い空間がイヤだったのかもしれない。なんだか白びかりする、大人用の大きなトイレがどん!とその中に鎮座しているのが怖かったのかもしれない。とにかく、子ども用の補助便座をセットしても、トイレの空間に入ろうとするだけで「ぎええええ!」と泣いた。
その後も数ヵ月間、気が向いたときに「娘ちゃんもトイレでおしっこしてみる?」「入ってみる?」とさりげなく誘ってみたが、決して「う!」とは答えず、静かにぶんぶんと首を横に振り続けてきた。
その、娘が!
突然、自宅のトイレに速やかに入室しただけでなく、おとなしく座って用を足した……!のである。
この感動が伝わるだろうか。と書きながら、いや絶対に伝わらないし、わたしもこれが赤の他人の文章だったら5℃くらい低い温度感で3歩引いて読んでるだろうから無理ないわ、と妙に冷静な自分もいる。
まあでも、今回は娘のことなのでもうこのままの温度感でつきすすんでしまおうと思う。誰かついてきてくれますか。はたして。
* * *
記念すべきその瞬間は、意外なきっかけでおとずれた。
それは月曜日、微熱と咳で娘を小児科へ連れていき、自宅へ帰った午後のこと。
ポストには、某通信教育の受講をすすめるダイレクトメールが届いていた。トラを模したキャラクターがででん、と印刷されているあれである。
テーブルにぽん、と置かれたその封筒。そのカラフルな絵柄に、なんとなく「自分に当てられたものだ」と察知する娘。手を伸ばし、“開けてよ”という意志をもって「う!」と差し出してくる。あなどれない。
はいはい、とそれを開け、入っていた付録で遊びつつ、片手間でなんとはなしに、同封されていた親向けのリーフレットをめくる。パラパラ……。
そしてふと、1枚の写真に目をとめた。
トイレトレーニングというか、オムツはずし関連のページがあって、そのページの隅に、実際に2歳くらいの子どもが、大人用のトイレに補助便座を装着したうえに座っている、小さな写真が乗っていたのだ。
「あ、娘ちゃんみてこれ。お友だちもトイレ座ってるねえ」
深い意図もなく、今日天気いいねえ、くらいの世間話テンションで、その写真を指さしながらそうつぶやく。
しかし予想外に、娘はその写真に興味を示した。
「う!」と言いながら自ら指さして、じっと見ている。
その反応をみて、“まあどうせいつもみたいに、首を横にふるんだろうなあ”とは思いつつ、念のためちょっと聞いてみた。
「お、娘ちゃんも、トイレでおしっこしてみる?」
するとなんということでしょう、あれほど頑なに自宅のトイレ入室を拒否し続けていたむすめが、いとも簡単に「う!」と言うではないか。母、動揺。
「え?! そうなの? する? してみる?」
「う!」
「よし、じゃあいってみよう!」
気が変わらないうちにと、さっそくトイレへ向かう。実際に向かうとなったらまた首を横にふるだろうかと思ったが、娘、かつてないほど率先してトイレへの歩みを進める。
トイレの前でズボンとオムツを全部脱がせ、補助便座に座らせてみる。なんと、素直に座る!
数ヶ月前は、トイレの空間に入っただけで、全身でのけぞり、この世の終わりかというほど「ぎええええ!」と泣きわめいたというのに!
おとなしく自宅の補助便座に座れただけでも感動していたわたし。すでにオムツにも用を足していたので、出ないかなと思いつつ、せっかくなので記念に声をかけてみる。
「しーしー、できるかな、しーしー、しーしー」。
すると!
チョロロロロ……。
残っていたのをがんばって絞り出しました、という感じで、声にあわせて娘が排尿したではないか。
トイレの空間に足を踏み入れるのすらこばんでいた娘が、便座に座って、ここでおしっこをするのだと理解して、用を足している……!
すでに同い年の子たちは言葉がたくさん出ていたりもするので、すでに言葉で意思交換ができる子の親御さんからすると、いまさら感が強くて感動レベルがずれているかもしれない。
でも、これは我が家にとっては一大事なんだ。
こちらの言うことはなんとなく理解しているようだし、聞かれたことに対してYes、Noは答えることができても、まだ自分から文章でまとまった意志を伝えることはできない、いまのわが子。
まだまだ何をどこまで理解できているのか日々、手探り状態な我が家にとって、娘が便座に座り、しかも座ったタイミングで彼女の意志によって排尿をするということは、少なくとも「ここはおしっこをするとこ!」と彼女が理解しているということを伝えてくれる。
そんなコミュニケーションの一片なのである。
* * *
翌朝も、同じ写真を見せながらトイレに誘ってみたら、同じように排尿ができた。偶然じゃなくて、意志をもって力んでいることがわかり、大いに褒める。
その日は夫とバトンタッチし、わたしは外で作業、夫が自宅で娘をみてくれることになった。外出前、例のリーフレットを開いて机に置きながら、娘にこう声をかけてみる。
「トイレでおしっこしたくなったら、この写真を指さしてお父さんに教えてね。そうしたらお父さんがトイレに連れて行ってくれるから」
「う」とは言ったものの、はたしてどのくらい理解しているかなあ、と思う。でもまあ、理解しているつもりでなんでも、とりあえず話してみるのはいいと思っているので、なるべくこちらで制限しすぎずに、いろいろと状況を話すようにしている。言ってみないとはじまらないしね。
すると昼過ぎ、夫からメッセージ。
「娘ちゃん、ちゃんとあの絵を指さしておしっこしたいの教えてくれました!」
おお!なんと! 朝言ったこと、伝わっていた。
まだ自分から言葉で意志を伝えることができない娘だけれど、ちゃあんと話を聞いて、理解しているんだなあ。それを改めて認識できて、ほんとうにうれしかったし、驚いた。
* * *
……とここまで下書きにしておいて1日後にアップしようと思っていたら、その1日のあいだに、なんと娘は自宅トイレで引き続き、うんちデビューまで果たしてくれた。
しかも1日の間に、3回も、トイレで排便したのだ。
トイレ行く?と聞いて「う!」と言うから、わたしは当然のようにおしっこだと思い「はい、しーしー」と呑気に声かけをしていた。すると娘は、無言でむぐぐぐっ……と全身に力をいれはじめたのだ。あれっ、これはもしや、と思ったらそのもしやだった、3回とも。
子ども用の足場を用意していないので、踏ん張りづらいのかちょっと苦戦しているようにみえる。すかさずわたしは便座のまえにかがみ、「ほら、お母さんにつかまっていいよ」と身を差し出す。
わたしの両腕にのしかかるようにしながら、むぐぐぐっ、と真剣にいきむ娘。ちょっとスキージャンプみたいな姿勢だなと思う。
一生懸命な娘がかわいいのと、自分を含めたこの状況を定点カメラから見ていたら地味におもしろいだろうなあ、という客観目線が脳内にちらついて、ちょこっと笑ってしまったのは内緒。っていうか育児中の風景って、定点カメラから客観的に見ていたら笑えることがほとんどだよね。
そして無事、ちゃあんと出た。
きれいにおしりをふいて、オムツをはかせて降ろしたら、娘は便座にはいった、自らの体から生み出されたそれをまじまじとチェックして、なぜか慣れた手つきでトイレのふたを閉じようとする。
ちょっとまって、とあわてて補助便座をはずしてやり、ふたを閉じさせると、トイレのレバーに手を伸ばそうとする。一緒にレバーを回す。きっとこの流れは保育園でやっているんだろうな。
でも自宅の大きなトイレでできたのは初めてだ。そしてこの日、3度のトイレのうち、2度までは補助便座をはずす前にトイレのふたを閉じようとして、わたしに「ちょっと待って」と止められていた娘だが、そのようすをちゃんと見て、3度目はふたに手をのばす前に、自ら補助便座をとったではないか。短期間に記憶、学習している。
しゃべれないから、ことばで表現できないからといって、何も考えていないわけでは決してないのだ。外国人ネイティブに囲まれたときの自分を想像すれば、身に覚えもありまくる。
そうか。まだ「しゃべることもできない」、と思っていたけれど、「しゃべることができない」だけで、脳内ではものすごくいろいろと考えているのだなあ。改めてそう思った。
* * *
いやはやしかし、新生児のオムツ替えのときから思っていたけれど、子育てをはじめてみるまではほんとうに、おしっこやうんちがこれほど家庭内、夫婦間で頻出ワードになるとは思ってもみなかったし、活字にすることにもこんなにも抵抗がなくなってしまうとも思わなかった。
新生児のときはとくに、しゃべれないし動けない赤子の健康のバロメーターとして、排泄物はとっても大切で、それに慣れてからはこういったトピックに抵抗がぐんと低くなってしまった気がする。もちろん、ときと場所は選びたいと思っているけれど。
おとなになってしまえば、健康なときはいちいち意識することのない、日々の排泄のこと。娘の成長をそばで見ていると、そんな排泄ひとつとっても、赤ちゃんから幼児になって、こうやってひとつひとつ、習得してきたんだなあと思う。人間の文化に合わせて。
ささやかすぎるけれど、一大事なひとコマ。
流れていって、思い出すことすらなくなる小さくて大きな感動を、「書き残すような内容じゃないよなあ」ってことこそ、しかと書き残しておきたかったのでした。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。