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よろいを脱ぎ捨てて、わたしはすっ裸になった

あれほど生きてきたけど全ては夢みたい
あれもこれも 魅力的でも私は君がいい
きらり/藤井風

自分の内側の宇宙を旅してきた。いま見れるものはぜんぶ見たし、知りたかったことで、いま知りうることは、大体わかった。

ただ、壮大な旅をしたところで、わたしはわたしでしかなかった。

周りのスピリチュアルを見ると、多くは現実創造を謳っている。わたしも、「内側に集中した結果、こんな現実を手に入れました!」なんて自慢してみたいものだ。(いや、どうだろう?)

実際、内側を整えれば思い描く現実はついてくると思う。だけど、そこに焦点を当ててしまうと、ステイタスゲームに逆戻りだ。外側のアイテムを自分という存在のよりどころにしていては、キリがない。

とはいえ、これだけとことん向き合ってきたというのに、これといって目に見える結果みたいなものがないことには、正直がっかりしていた。

よろいを、これでもかと外してきたわたしに、残ったものはなんだろう。

...なにもない。

すでに知っていた哲学を、からだを張って体験してきただけで、これでは振り出しに戻ったみたいじゃないか。頼まれてもないのに、すっ裸になってなにをしているんだと、ばかみたいな気持ちにもなった。

しかも、よろいを手放したわたしの姿といったら、本当にいびつだった。旅を続けるたびに、そのいびつな輪郭は、どんどんはっきりしてくるんだから、勘弁してほしい。

このままの姿では、社会では役に立たないどころか、邪魔になるので知らないうちに封印してきたけれど、どうやらそのいびつさこそが、わたしのなかに、"あった"もの。これが、「なにもかもすでに持ってるのにね」の境地なのか。

いびつさをようやく受け入れ、ノーフィルターの自分と生きていくと決めたところで、わたしはまだ迷子だった。

だけど、最近になってようやく気づいたことがある。よろいを脱ぎ捨てるのに、ここまで使ってきたものすごい熱量。そうか、これを使っていくのか。

すごいもの、持っていたじゃないか。

勉強やダンスといった使いみちがあったときはよかったけれど、大人になってからはしっくりくる使いどころが見当たらなくて、思ってみれば持て余していたのかもしれない。

よろいを手放したからこそ、そのたいせつな熱量を使うべき道筋が、ぼんやりだけど見えてきた。時間をかけて、ていねいに探してきたわたしは、自分にとても誠実じゃないか。

物質的な世界でいうと、目に見える成果みたいなものこそなにもないけれど、わたしは、「ある」ほうの世界にシフトした。

とはいえ、すっ裸のまま生きるのは、仙人街道まっしぐらみたいなものなので、これではさすがのわたしも楽しくない。

これからは、エゴを上手によろこばせながら、楽しんで進もう。それが人間の醍醐味でしょう。いい塩梅を知るために一度すっ裸にならなきゃいけないんだから、本当に不器用だ。やっぱりばかじゃないの、と言いたくなるけれど、それでは自分がかわいそうなので、やめておこう。

この先の旅路は、できるだけ笑っていたい。結局なにしたところでただのゲームなのに、ゲームということを忘れて本気になりすぎてしまった。熱中するのも、ほどほどに。

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