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ちゃんとしない、合わせない。いびつなまま生きる

約2年間くらいかけて、自分のなかの宇宙を旅してきた。深く、深く。その結果、立っている場所も、自分という存在も変わらなくて、がっかりしたけど、自分がかけているメガネは、変わった。人生は、自分のことをどう見るか。世の中のことをどう見るかだ。

この記事を書いたちょうど1年後のいまも、おなじ無価値感に打ちのめされていた。

エゴのわたしは、いつだって、もといた、いわゆる”一般的な世界”でしっかり生きられなかった自分のことを責める。

この記事を見つけたときにすこしがっかりしてしまった。なんだ、まだ同じところにいるいるじゃないか、と。

ただ、今回わかったことは2つ。

ひとつは、この無価値感は、いつだって自分の奥底にあるということ。ときどき、タイミングで顔を出すことがあるけれど、排除しなくてはいけないものではなかったのだ。肉体がある以上、エゴを完全になくすことは、できない。無価値感を感じるエゴの自分もひっくるめて、<わたし>としてこれからは生きていけるということ。

もうひとつは、この無価値感に出会うたびに、自分が生きたいのは、うまく生きられなかった”一般的な社会”ではないということが、明らかになる。「うまくやれなかった、親の期待に答えられなかった、自分のことがだめな人間に感じる...」そういう思いが出てきたときに、聞いてみる。

「その社会で、その価値観で(ステータスや家族ごっこ)生きたかったんだっけ?」と。

答えは明白。その生き方がおかしいと感じたから、自分にはどんな生き方ができるのかと、模索してきたわけで、いまなら、この違和感を自信を持って肯定できる。

結果、これからわたしが生きたいのは、ちゃんとしない世界。ひとに合わせない世界。だれもが自分のいびつさを、そのまま抱えて生きる世界。

「自分らしく生きよう」「自分軸で生きよう」と発信しているひとの多くは、結局、いまある(窮屈な!)社会の枠組みのなかで、うまく生きようとしている。

ほんとうの意味で自分を追求し、自分を生きようと思ったら、ふつうの世の中にはおさまれない。そこは、ひとに合わせること、ひととうまくやること、ひとによく思われる(評価される)ことがたいせつにされていて、そこではまだ自分を偽らなくては生きていけない世界だから。

今回の、無価値感に打ちのめされる時期を通して、わたしは、もうあちらの世界はほんとうに諦めよう。そのためには、自分が生きやすい世界を、自分が広げていくしかないのだと、感じたのだった。

この確認をなんどもなんども、深めながら、生きていくんだろう。

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