ADHDと診断されたお話。(前編)

タイトルの通りなんですけど、実は私ADHDと診断されてます。

別に今まで大々的に公表するつもりもなかったし、かと言って隠すつもりもなかったんですが、

(“公表”とかいう言葉が使えるほど、自分が知名度や注目度がある人間だとも思ってないし笑)

色々発達障害関係で困ってるみたいな話を身近でも聞く機会もあって、自分の経験が誰かの役に立てばなぁと思い、この文章を書くことにしました。興味のある方だけお読みください(笑)

✳︎ADHDの特性をもつ方の中にも、様々な種類、程度があるようです。これから書くのはあくまでの僕個人のケースであり、発達障害全般に一般化しないようにお願いします🙇‍♂️


まずADHDとはなんぞや、という話ですが、日本語にすると、注意欠陥多動性障害というもので、発達障害に分類されます。
その特性には、大きく分けて“不注意“そして“多動”あるそうです。

“不注意“は、忘れ物、失くし物が多い、物事の順序が立てられない、などの特性で、

“多動”は、じっとしていられない、衝動で動いてしまう、などの特性だそうです。

僕は主に不注意型だというふうに先生からお話を受けました。

思い返せば小学生の頃から時間割、提出物をきちんとするのが苦手(今に至るまで)、
人の話を聞くのが苦手(今はそれなりに治ったと思ってる)など、
当てはまる特性はあったと思うのですが、親や周りの人に手伝って貰えれば、問題なく日常生活を送れていました。

忘れ物が多い人、失くし物が多い人は周りにもいましたし、(周りと比較しても)自分がそこまで特別に出来ない存在であるとは思っていませんでした。
中学校までは成績も“上位層の中の下の方”くらいだったし、特にコンプレックスなども持っていませんでした。


恐らく生活の中で苦手なことを“人に頼るクセ“や、“できる限り避ける方法“を無意識のうちに編み出していて、
自分でも気がつかないうちに回避しながら生きてきたのだと思います。

自分に“どうしようもなく困るほどの苦手”があることに気がつかずに生きてきたんですね。


ただそれでは通用しなくなってきたのが高校時代。

膨大な提出物とやらなければならない作業(毎日の小テスト勉強など)

教科数も中学のときから倍近くに増え、全ての教科のタスクを管理することは出来ませんでした。

成績はほぼ学年最下位、毎年進級がギリギリの学年では有名なバカでした(笑)

しかし、この時期ちょうどジャズに出会い、のめり込んでいった時期。

そのため、僕も本気で勉強に向かおうという意識もなく、成績にもあまり興味がありませんでした。(そもそもジャズバンド部に入部したくて選んだ学校だったので)

もしここで本気で各教科の勉強に取り組んでいれば、

きちんとやろうと死ぬほど努力する

どうしても出来ない

これは何かおかしい

という流れで発達障害に気づいていたのかもしれませんが、そもそも本気でやろうとしていなかったため、

まぁちゃんとやればできるやろ、やってへんだけや。


みたいな感覚でした。

それに高校時代は部活の運営を巡って、弁護士の名前が出てくるくらいのガチの対立を学校側としていて、完全にそれに精神を削られ、勉強などやってる余裕ではなかった都合もありました。
(あのときはそっちの方で精神状態が本当におかしかった)


ただ、これは受診したときに先生に言われた言葉なのですが、

最初はきちんとやろうとしていたけど、出来ないことを周りに理解されずにつまづくうちに、そもそもの意欲を失っていったのではないか、

と。

そういう状況がADHDの人に多いようです。


そう言われてみれば、確かに高1のほんとの最初の方は、勉強も頑張っていたような記憶が微かにあるような、、、

これも無意識のうちに出来ないことを避けて、音楽に向かっていったのかもしれませんね、、


高校はなんとかギリギリ卒業し、無事に音楽系で大学に進むことが出来ました。

大学では頼れる友達が出来ました。
時間割を組む作業、テスト範囲、提出レポートの把握などのややこしい管理はその友達に大幅にサポートしてもらうことによって、特に困ることなく生活出来ていました。

Tくん本当にありがとう。


そして最初に、あれ?と思ったのが大学生になってアルバイトを始めたとき。

どうしても仕事が覚えられない。出来ない。

某ファストフード店に入ったのですが、我ながらほんとに手際が悪い。覚えが悪い。それでも次から次へとやってくるお客さん。

ほんとに毎回パニックになってました。
シフトに入る日の前日の夜は眠れず、当日の朝食は喉を通りませんでした。
勤務中は極度の緊張で口が乾きすぎて、2日後くらいまで喉に違和感が残るほどでした。

そもそもアルバイトなんて絶対にしたくありませんでした。
これも多分、今まで生きてきた中で研ぎ澄まされた、“出来ないことに真正面から向かうことを避けるレーダー”が反応していたのだと思いますが。

でもどうしてもバイトくらいしろという親に抗えず(常識的に考えて親が正しい)、渋々働くことにした経緯があるんですね。

大学も忙しかったため、それを理由に、そこは半年くらいで逃げるように辞めました。

以降は簡単なピッキングの派遣バイトなどを学校の長期休暇にたまに入るくらいに落ち着きました。迷惑をかけつつも、かろうじてそこは務まりました。ほんとにかろうじて。


しかし、また困り始めたのは、大学の学年が上がり授業のコマが空いたことで、また始めることになった飲食店アルバイト。

某ファストフード店よりはマシだったものの、基本的には以下同文。

店長が愛情をもって接してくださっていた分、余計申し訳なさで苦しい。
1年しがみついたものの、そこも辞めました。


そして、もとから自分自身でうっすら疑っていた発達障害の可能性を信じてやっと受診へ〜という流れ。

可能性を信じて、というのは、せめてなんか病名ついてくれ、じゃないとやってられん、といった感じですね。

以上が受診まで経緯です。

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