かつて住んでいた街の記憶の断片を拾い集めに
西へと向かう中央線に揺られながらゆっくりと思考を巡らせる。
神田、御茶ノ水、四ツ谷、新宿……。
頭の中を過ぎ去っていく馴染みのある駅名。
「あと5駅か」
隣で帽子を深くかぶって寝ている彼女を起こさないようにそっと呟いた。
私たちはかつて住んでいた街をあてもなく訪れようとしていた。
そこはわたしにとって特別な場所。
何でも知っているから、誰かに教えたくなる街。
あてもなく窓を眺めていると、無機質な東京のビル群が徐々に住宅街へと変わろうとしていた。
かつて何百回も目にした錆びついて少し頼りなさそうな子供スイミングスクールの看板。でも、源界明朝で書かれた文字は、「まだまだ現役だぜ!」と見栄を張っているように見えて面白い。
「あともう少しであの街だ」
だんだんあの街へと近づいていく車内アナウンスすら愛おしく思え、電車の扉が開く音に耳を澄ませるたび、胸の奥で小さな歓声がはじけるようだった。
電車から降りるといつも、「おかえりなさい」と言われたような気持ちになり、上を見上げたくなる。
5号車に乗れば改札へ続く階段が一番近いとか、立ち食い蕎麦屋はここにあるよねとか、住んでいないと意識しないようなことも全部覚えている。
この街に来ると、今も住んでいるような気持ちがしてくるから不思議だ。
そして、北口改札を抜け、商店街を1本外れた通りに出る。
ポケットに手を突っ込みながらパチンコ屋に入る人を、冷めた目で見ていたかつての自分の姿が思い浮かんだ。頭の中の細胞が光り出し、次々に記憶が呼び起こされていく。
あの頃の自分は人生に喜びを見いだせず、何もかもに嫌悪感を抱いていたっけ。やはり、この街は色んな感情を私に与えてくれる。
「懐かしい。あのアジアンカレー屋さん、まだあるじゃん!久しぶりにいこうよ!」
カレーが大好きで下北沢に住み始めた彼女。インド旅行のお土産でスパイスをあげた時は、「これで特製カレー作るんだ!」と張り切っていたっけ。
「あそこのチキンカリー、大量のパクチー乗ってたよね。スパイスはあれとあれで~」と延々とカレー愛を語る姿が微笑ましい。
そういえば、ここの店員さんは皆、東南アジア系の人たち。お国柄楽観的なのか、秘伝のレシピがカウンターから丸見えで、密かに盗み見ていた。だからこんなに詳しいのだろう。
彼女はこの街に住んでいなかったが、「あなたの思い出はここにあったのね」と心の中で感じた。
カレーを食べた後は、かつて足繫く通っていた古本屋さんを見に行くことにした。
高級感あるマホガニーの両開きドアに何か張り紙が貼ってある。
「閉店のお知らせ 当店は○月○日をもちまして閉店することになりました。長らくご愛顧い頂きありがとうございました。」
扉の小さな隙間から店内が見えたが、今は薄暗くかつての面影がなくなっている。
高く積みあがった文庫本や単行本の山。古本の懐かしい匂いに包まれた店内。読みもしない分厚い学術書を手に取って眺めてみたりもしていたな。ここでの時間は私にとって特別だった。
丸眼鏡と髭がトレードマークの店主、今頃何してるかな。よく棚卸しに追われていたよな。
彼は本が大好きな人だったから、どこか知らない街で大好きなカレーとともに本屋を開いているだろう。
いつか会いに行って、驚かしてやるか。
かつて住んでいたアパートから徒歩2分にある老夫婦が営むお弁当屋さん。
いつもお昼になると、日に焼けたたくましい土方仕事のおじちゃんたちとお弁当ができるのを待っていた。
1番のお気に入りは「アジフライ弁当」
420円でアジフライが2枚、ケチャップスパゲッティ、千切りキャベツに沢庵が付いている。しかも、お母さんがよそうご飯は大盛り。いつもしゃもじでご飯を押しつぶして、容器いっぱいに入れてくれるのが面白かった。
お母さんの優しさ、ちゃんと受け取っていたよ。
今日は定休日で挨拶することが出来なかったが、手書きで書かれた営業時間の紙がお店のシャッターに貼ってあったのでホッとした。
かつて住んでいたこの街を訪れてみて、時の流れが刹那的であることを感じた。
この街でも、何かが始まったり、終わったり。世の中は、私が知らない様々な経緯(いきさつ)で満ちている。
仕事終わりに、いつも横目で見過ごしていた個人経営の喫茶店にふと足を向けた。「いつか行ってみよう」と思い続けながら、その「いつか」を先送りにしてきた場所。扉を開けると、店内にはマスターと常連らしきお客さんの笑い声が響き、コーヒーの香りとともに柔らかな空気が流れていた。
カウンター席に腰掛けてコーヒーを頼み、静かに時間を過ごす。使い終わったコーヒーフレッシュの小さな空洞に、気づけばおしぼり袋の切れ端を詰め込んでいる。その単純な動作のたびに、今日はまるでかつて住んでいた街の記憶を手探りで拾い集めているような気がした。
あのカレー屋さん、人生に疲れ切ったかつての私、大好きだった古本屋さん、薄れゆくけれど消えない思い出たち。心の奥底に眠る風景を掘り起こすようなこの感覚が、どこか心地よい。そして気づく。変わっていく街並みを見つめながら、その中で変わらない何かを探し続けるのが、やっぱり好きなのだと。
「懐かしかったね~」と笑い合いながら駅へと向かう時間がとてつもなく楽しかった。
電車のドアが閉まり、窓から街を眺めながら「いってきます」と心の中で呟く。そして、走り出す電車の窓から最後に見えたのは、夕日に照らされた「アコム」の看板。
それはこの街の象徴みたいに思えて、なんだか面白かった。