OrganWorks『Too enough medium』覚書
平原慎太郎監修
OrganWorks『Too enough medium』
平原慎太郎監修のダンス・カンパニーOrganWorksの新作公演。
今回の会場は神楽坂セッションハウス。
出演にはOrganWorks所属の若手陣として浜田純平、池上たっくん、大西彩瑛、村井玲美、堀川千夏が参加。
振付・演出は勿論、平原慎太郎。
上演時間は1時間10分。
ストーリー仕立てとしても鑑賞できる構成になっているが、今回は一切台詞を使わないオルガン作品としては珍しい形式。
以下、覚書として観て考えたことを書き留めておく。
■構成・美術
ダンサーは先述の通り、5名。
女性3人に対して男性は2人の奇数構成。
この構成は実際に劣ると二つのペアが生まれると1人が孤立することになる。
その孤立がドラマを生んでゆく妙。
舞台上は青色のビニールシートで覆われており。舞台奥には赤色のベールが吊るされている。左には演技にも使用されるカセットデッキが配置されている。
■「覆う」というテーゼ
使用されるベール、ビニール等々は「覆う」ための道具。
芸術、ことに美術と「覆う」ことは因縁深いものがある。
文明開花直後には西洋の裸体画が風紀を乱すという理由で布で覆われた【腰巻き事件】が起きた。
人間な行動たる「覆う」という行動。
食べ物を隠したり、排泄物を埋めて隠す動物はいる。
だけれど「隠す」と「覆う」ではニュアンスが違うことに気づく。
隠す生き物はいても、覆うのは人間の独特な行動なのだ。特に覆うものの代表たる衣服は着ること自体が欲求に近いものがある。
この「覆う」ことに着目した着眼点がまず、面白い。
■何を「覆う」か
人はなにを覆うのだろう?
①人に見せたくないもの
醜いもの、汚いもの、見るのが怖しいもの。
忌むべきものを人は覆いたがる傾向がある。
或は、見たくない現実から目を背けるために。
②特定の誰かにだけ見せるため
特定の人物にだけ見せるものを普段、覆い隠しているパターンがある。
海外の宗教画や、仏画で特別な日にだけ公開するものは珍しくない。
この場合は忌まわしいものというより美しいもの、綺麗なもののを覆うことになる。
こうやってイメージを羅列すると奇妙な発見がある。
人は美しいものも醜悪なものも覆いたがる。
対立するように見える二つへの欲求が同じ「覆う」ことなのだ。
■美と醜の両立
この示唆はマクベスの
「綺麗は汚い、汚いは綺麗」
のアイロニーを思い出させる。
表裏一体、というよりもむしろ表裏という概念すらない一体的なイメージ。
光と影の関係と同じ。
両者があって初めて生み出されるものがある。
美醜の一体となった芸術はクリエイターの目指す到達点になりうる。
美しいものだけ/グロテスクなものだけを切り取ると、不満足を覚えてしまうのは私だけだろうか。
その世界へリアリティが感じれない。
どんなに写実的でも、影のない風景画は物足りないし、醜悪なだけのカットには嫌悪が湧く。
しかし、グロテスクに一条の光芒が射すだけで印象が変わる。美しい景観に影があるのを見て美しいと思えることがある。
今回のダンスもそうで、美しさのなかの醜さ、またはその逆が目まぐるしく移り変わってゆく。
そして隠すアイテムを効果的に用いる。赤色のベールカーテン、毛布、袋、手袋。
ある意味でその介在となる覆うツールが美と醜を調和させてゆく。
その全体のプロセス、構図が美しい。
■ダンスを見る理由
私がダンス・舞台演劇を観る理由は、こうして無限におもえる思考をもたらしてくれるからでもある。
見終わったあと、感想が溢れてくる。
若い頃は、劇場に残ってひたすらアンケート用紙に感想を書いていたのが懐かしい。
noteという便利なツールを知り、こうやって記録できるのは自分としても喜ばしい。
ダンスの覚書は今回で二度目。
今後も習慣としてなにかを鑑賞したあとは投稿してゆくことにする。