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【#私と311】「までいに」関係性を育む|PR部インターン 岸本華果

ポケマルは、東日本大震災をきっかけに生まれました。
当時、岩手県議会議員だったポケマル代表高橋が被災地で目にしたのは、都市の消費者がボランティアとして地方の生産者を助けた一方で、必要とされ感謝されることで生きる実感を取り戻し、逆に被災生産者に救われていく光景でした。ポケマルは「個と個をつなぐ」ことで、こうした「共助」の関係を日常から生み出そうしています。
東日本大震災から、もうすぐ10年を迎えます。震災を何らかの形で経験した私たちは皆、少なからずこの出来事に影響を受け、10年間を歩んできたはずです。「#私と311」では、被災地で見られた「共助」の関係を日常へと広げていくため奔走するポケマルメンバーが、自身の10年を振り返り、決意を新たにすべく想いを綴ります。

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震災を知るため、飯舘村へ

震災当時、私は中学2年生で、京都に住んでいた。覚えていることといえば、押し寄せる津波にありとあらゆるものが流されている東北の映像くらいだった。かなり衝撃的だったが、あまりに現実離れしていて、どこか遠い世界の話みたいだった。原発事故の報道もよく見たけれど、難しくてよく分からず、次第に遠ざけていた。東北に親戚や友人もいなければ、行ったこともなかったから、まるで自分ごとにはならなかった。

強い関心を寄せることもないまま7年が過ぎる頃、大学の講義で、福島県飯舘村で農地の除染と再生を研究されている先生に出会った。「あなた自身ができそうな被災地の農地再生を考える」というレポート課題が出て、そのとき初めて、自分が東日本大震災についてあまり知らないこと、自分ごととして捉えるのが難しいことを自覚した。そんな私にできることは、まず震災を知ること、つまり、実際に被災地へ行き、具体的に想いを馳せることができる「人」と出会うことだと思った。

それからしばらくして、先生が飯舘村に行く機会にご一緒させてもらった。飯舘村は福島第一原子力発電所からは距離があるものの、事故当時の風向きと降雨・降雪のために放射性物質が降り注ぎ、全村避難を余儀なくされた。2017年の3月31日、帰還困難区域の長泥地区を除いてやっと避難指示は解除された。私が訪れたのはその1年後、2018年4月だった。

牛と共に農地を守り、村へ帰る人を待つ

飯舘村に入ってすぐ、菜の花畑や満開の桜がたくさん目に入ってきた。すごくきれいで、村のいたるところに汚染土が入ったフレコンバッグがあることを除いては、普通の村のように感じた。飯舘村で除染に伴って発生した土壌や廃棄物は、フレコンバッグに入れられて仮置き場に集められ、こんな感じで緑のシートを被せて置かれている。原発近くの大熊町・双葉町にある中間貯蔵施設へ少しずつ運び込まれているものの、輸送された量はまだ半分にも満たない(環境省,2021)。

フレコンバッグ

(2018.4.28 仮置き場の様子)

先生がこのとき飯舘村を訪れたのは、松塚地区の田んぼに暗渠排水という排水設備を設置するのを手伝うためだった。水田に穴を掘って、余分な水を排出するための素焼きの土管などを埋めて、その上に水を集めやすくする疎水材(杉など)おいて土をかぶせる。そうすることで水はけが良くなる。なんでそんなことをする必要があったかと言えば、もともと水田だったこの場所で放牧をするからだった。

暗渠

(2018.4.28 写真上部は素焼きの土管、下部は疎水材の杉を被せてある)

事故前の飯舘村では稲作や畜産が行われていたが、事故後は除染で表土5cmが剥ぎ取られ客土され、土作りからする必要があったこと、土作りに必要な堆肥を供給する牛がいないこと、コメを生産できたとしても風評で売るのが厳しいことなどから、コメをつくるという選択をする人は多くなかった。荒廃農地が増えることを懸念したある畜産農家さんが、「みんなが戻るまでは、牛の力を借りながら農地を守る」と提案したのが水田放牧だった(参考)。牧草地にするには畔を撤去する必要があったが、畔は農地の一部とみなされておらず、除染の対象外で、最終的には先生らと実験を重ねながら畔を撤去したという。私が行った時にはすでに水田の面影はなく、だだっ広い牧草地だった。この2年半後、2020年10月に再び訪れた時には、牛さんたちが元気に草を食べている姿も見ることができた。

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(2020.10.3 牧草をはむ牛さんたち)

土も、地域での循環も、お客さんからの信頼も、全部長い時間をかけて積み上げられてきたものであり、決して元通りにはならない。新しくつくるのにも時間を要する。それでもこの農家さんは自分ができる新しいことに挑戦して、飯舘に帰ってくる人を待っている。

その土地で生きることの意味

原発事故でいろんなものが失われてしまった困難な土地に、どうしてまた住もうと思う人がいるのか、最初はよくわからなかった。そんな私に新しい視点をくださったのが、比曽地区の花農家さんだった。

この農家さんも、土壌の状態と風評がつきまとうことからコメは諦めていた。今は寒冷な気候を生かしてトルコギキョウなどを栽培している。帰還の際には、国の除染対象外となってしまった民家を取り巻く居久根(屋敷林)の線量が高いままでは村民は帰ってこないと、自ら除染にも取り組んだ。一人でも多くの村民が帰ってきくれることを願って、ご自身のできることに人生をかけている。

「天明の飢饉の末に生き抜いた先祖から受け継いでいるこの土地をまもっていきたい。ここで逃げたというのは先祖に申し訳ないし、次の世代にも格好がつかない。補償金だっていつまで続くかわからない。打ち切られたらお金は減る一方。線量のことなど心配する気持ちもわからなくはない。でも俺は、帰ってきてチャレンジしようよ、と思うんだ」

そんな風に語ってくださった。自分がいなければ、この流れが続かなくなってしまう。そんな状況で、村に帰ること、そこで生きることには、どんなに大変だとしても意味がある。

私はその土地で生きることの意味というものを、あまり考えたことがなかった。転勤族だったから、今まで住んでいたどこを故郷と呼んでいいかよくわからないくらいに、全部が故郷であり全部が故郷でないような感覚がある。そしてそこに時間軸はない。私が過ごした数年間という切り取られた時間のみがあって、それが先祖や次の世代という流れの中の一部であるとは考えたこともなかった。「大変だから(別のところに住めば良い)」なんて言葉では決して片付けられない、片付けてしまってはいけない、大事なものがあるということを教えてもらった。

トルコギキョウ

(2019.11.3 トルコギキョウ)

ごちゃごちゃ言わずに足を運ぶ

飯舘や他の場所でも、原発事故の話になると必ず聞くのが風評に関する話だった。私は事故後5年くらいは自分で食べものを買っていなかったこともあって、ほとんど気にしたことがなかった。消費者庁の調査では、放射性物質を理由に購入をためらう消費者は減ってきているという。でも、未だに福島県産の農産物は価格低迷が続いているそうだ。

検査や安全性を説明する手間を考えたり、納入先の業者や消費者に買ってもらえないのではないかと実態よりも思い込む傾向から、流通の段階で買い控えられているからだった(河北新報, 2020)。そんな中、きゅうりは価格が戻っている(河北新報, 2020)。夏場の首都圏の需要に応えるには福島の存在が不可欠だからというが、逆にそうでもない限りは価格が戻りづらいということでもあると言える。

飯舘村で酒米を作った農家さんも、「日本はもので溢れているから、たとえ数値的に安全だとしても、わざわざ福島のものを買う理由がない。買うだけの付加価値や物語がないと」と、その酒米から作った純米酒を紹介してくださった際に、おっしゃっていた。

風評は誰も悪くないのがつらい。検査で科学的に安全であることはわかっているが、よく理解できないからと(あるいは理解できたとしても)購入を避ける消費者がいることも、そういう消費者がいるだろうからと違う産地と取引をする業者がいることも、責めることはできない。

何を買うのかも、どこに住むのかも、最終的には個人の選択だから、村のものを買おうよとも、村に戻ろうよとも、なかなか言えない。飯舘村で研究しながら、ごちゃごちゃ言わずに一回足を運べといろんな学生を呼び、発信を続ける先生は、きっとこのことをよく分かっていらっしゃる。そして、村に戻っていろんなことにチャレンジしながら、村の人たちがまた帰ってくるのを待っている人たちも。飯舘は元気にやってるぞって姿を見せること、それが何よりも復興につながるんだと信じて、前に進んでいる。

「個と個がつながる」ことの力

私は、この村に来るまで、原発のことなんて気にしたことがなかった。よくわかんなくて難しいし、自分には関係ないと思っていた。でも、私が今便利に暮らしている都市には、地方や海外などいろんなところから、電力も、食料も、あらゆるものがやってくる。自分の便利な、快適な生活は、誰かから何かを奪っていないだろうか?そんなことを思う。

私たちはコロナで突然日常がなくなってしまったけれど、飯舘村や原発事故の被害にあった人たちは、人災で、あたりまえだった生活を奪われてしまった。人間がより便利に生きるために作ったもので、しかも、主にその恩恵を受けていた人たちは、住む場所や生業を追われることもなく、それまでと大して変わらぬ生活をしている。この10年で再稼働した原発もあるこの社会を、被害にあった人たちは、一体どんな想いで見ているんだろうか。

かといって原子力をやめる代わりに火力を増やせば、温室効果ガスの排出で気候変動が加速するという声があるのも、もちろんわかる。むしろ私は気候変動に強い関心があったから、こうして飯舘に来るまでは、「まあ原発って仕方ないんかなあ、事故が起こる確率も低いだろうし」くらいに思っていた。でも飯舘村の人と出会って、帰還困難区域になったバリケードの向こう側の景色を見て、本当にそれでいいんだろうか、と考えるようになった。事故が起こったという事実もそうだし、起こらなくたって核廃棄物は長いことなくならないで、後世までずっと残る。

夜ノ森駅

(2020.10.3 富岡町夜ノ森駅付近)

経済学者のマルクスやポランニーは、自然と人間の搾取が本質にある資本主義経済を、特殊歴史的なものとみなしていた。もともとは自然同士も、人間同士も、自然と人間も、みんな一緒に生きてきた。自然や人間を消費して、どんどん便利さを求めるような今の社会は、廃熱・廃物が増えて、遅かれ早かれ行き詰まる。過疎高齢化ですでに疲弊していた地方を襲った東日本大震災は、この行き詰まりを浮き彫りにした。気候変動によるいろんな自然災害もそう。今のコロナも、過密の都市という行き詰まりを浮き彫りにしている。いろんな場面でちょっとずつ顕になってきている。

ポケマルは震災がきっかけでできた会社だ。博之さん(ポケマル代表)がこの行き詰まりに気づき、自然も人間も共に生きるべきだと確信し、食べものを手段に分断されていた生産者と消費者、都市と地方、自然と人間をつなぐことで、双方が共に生きる社会を模索してきた。「個と個をつなぐ」をミッションに掲げ、「共助の社会を実現する」というビジョンに向かっている。

個と個がつながることには、力がある。私が飯舘村の「人」と出会い、原発というものを初めて自分ごとになって考えたように、知って関係性が生まれると、気になって考えずにはいられなくなる。震災や原発の話を聞けば、いつだって出会った人たちのことが頭に浮かぶ。自分の生活を支えてくれているものの存在を知り、関係性を築くことは、自分の生きる社会を本当の意味で自分ごととして考え、より良い社会をつくっていくための力になる。私はそう思うから、今こうしてポケマルで働いている。

飯舘村には「までい」という言葉がある。「手間隙を惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「時間をかけて」「じっくりと」という意味の方言だ。関係性を築くことは時に面倒で時間のかかることかもしれないけれど、までいに育んでいきたいし、ポケマルはそういう場でありたいなと思う。

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