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【#私と311】あれから10年、私は25歳 もういちど、震災に向き合う|事業開発部 石川凜

ポケマルは、東日本大震災をきっかけに生まれました。
当時、岩手県議会議員だったポケマル代表高橋が被災地で目にしたのは、都市の消費者がボランティアとして地方の生産者を助けた一方で、必要とされ感謝されることで生きる実感を取り戻し、逆に被災生産者に救われていく光景でした。ポケマルは「個と個をつなぐ」ことで、こうした「共助」の関係を日常から生み出そうしています。
東日本大震災から、もうすぐ10年を迎えます。震災を何らかの形で経験した私たちは皆、少なからずこの出来事に影響を受け、10年間を歩んできたはずです。「#私と311」では、被災地で見られた「共助」の関係を日常へと広げていくため奔走するポケマルメンバーが、自身の10年を振り返り、決意を新たにすべく想いを綴ります。

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あの日のこと

2011年3月11日、金曜日。中学校の卒業式の前日だった。
授業は午前中のうちに終わった。家に帰ってお昼ごはんを食べると、親友と自転車で遊びに出かけた。
「どこまで遠くに行けるかチャレンジしてみよう!」
高校の合格祝いに買ってもらった、新しい自転車。乗り心地も試したかった。
仙台は、東に行けば海が、西に行けば山がある。「海まではさすがに遠いから、山側に行ってみよっか」そう言って、私たちは西へ向かうことにした。

午後2時46分。
突然、地面が弾んだような感じがした。
立っていられなくて、何が起きたかわからないまま、二人で自転車を倒してかがみこんだ。
振り返ると、電柱が見たことのない角度に大きく揺れていた。
揺れは長く続いた。
このまま世界が終わるんじゃないかと、本気で思った。

揺れがいったんおさまると、震える手で、母に「大丈夫?こっちは無事」とメールを打った。
母からも、すぐに返信があった。高校にいる兄は無事で、母も無事。父は職場にいてまだ連絡がとれていない、そんな内容だったと思う。

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(14時46分、私は仙台市青葉区のこの交差点にいた。以下3枚の写真はGoogleストリートビューから)

私たちは、帰るのに必死だった。
道に敷き詰められたブロックは、大きく盛り上がっていた。アスファルトには、ヒビが入っていた。マンホールから、水が溢れていた。道路で倒れている人、その周りに集まっている人もいた。帰る途中も、何度か大きな余震があった。そのたびに、私たちは自転車を横に倒して、地面にかがみこんだ。

家に帰ると窓が開いていたので、ただいまと大きな声をあげた。すぐに母が出てきて、とにかくホッとした。兄も父も夜には無事帰ってきた。
真っ暗ななか、懐中電灯と仏壇のローソクを明かりに、カセットコンロで鍋をした。
冷凍庫のものが溶けるからと、鍋には大事に取っておいたカニなども入った。
我が家の食卓には似合わないくらい、やけに豪華な鍋だった。暗くて鍋の中がよく見えないので、「これこそ闇鍋だね」と家族で笑った。

その夜は、何度も何度も余震があった。その度に布団を頭に被せてぎゅっと握った。
揺れの感覚が体にずっと残っていて、船酔いのよう。ほとんど眠れなかった。

震災直後の買い出し

次の日からは、家族で役割分担をして日々を過ごした。
母は家の片付けをしたり、祖父母の面倒を見たり。
父は職場の事務所の片付けをしたり、ガソリンや灯油を手に入れたり。
兄は給水車から水をもらいにいったり、地域の炊き出しに参加したり。
そんななか、私は我が家の買い出し担当になった。

母から「ペットボトルの水、ラップ、ウェットティッシュ、お米、そのほか食材なんでも」というオーダーを受け、私は自転車を走らせた。
でもコンビニはおろか、イオンも生協も開いていない。
「しばらく閉店」と張り紙があるものの、いつ再開するのかも書いていない。
唯一開いていたスーパーには長蛇の列。
やっと自分の番になったけれど、みんなが欲しがるものはもちろん売り切れ。
買い出しの初日、かろうじて買うことができたのは、2Lペットボトルに入ったトマトジュースと、解凍されてしまったチキンナゲットだけだった。

このままじゃ、家の食べものが尽きてしまう。
次の日も、その次の日も、私は開いているお店を探して、自転車で仙台の街をめぐった。
スーパーの次に見つけたのは、家から自転車で20分ほどのところにある八百屋さんだった。店の前を車で通ることが多かったので、そこに八百屋さんがあったことはなんとなく覚えていたものの、一度も中に入ったことはなかった。

1時間以上並んでようやくその店の中に入ったとき、私は目を疑った。
たくさんの野菜が並んでいた。しかも、どれも新鮮なものだった。
冷凍品でも加工品でもない、新鮮な食材が買えたのは震災後初めて。とても嬉しくて、急いで家に帰って母に野菜を見せた。

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(この八百屋の横に、雪が降る中並んだ)

私は毎日、食材を探して自転車を走らせた。ときどき開いているスーパーがあっても、駐車場が人でいっぱいになるくらいの長蛇の列ができていた。どうせ何も手に入らないと、諦めて次の店を探した。

次に食材を買うことができたのも、小さな八百屋さんだった。品揃えは多くなかったけれど、とにかく食べ物が手に入ればなんでもよかった。やたら大きなかぼちゃを買った。
その帰り道、私は道路から盛り上がったブロックに自転車をひっかけて転んだ。
カゴに裸のまま突っ込んでいたかぼちゃが、道路に転がった。自転車には、大きな凹みができた。

そのとき、私のなかの何かがプツンと切れた。私はその場に座り込んで、大声で泣き出してしまった。
膝の痛みや、せっかく手に入れた食材を落としてしまったこと、自転車に傷がついたことだけが理由ではなかった。

私はいつまで必死になって食べものをかき集めなければならないのだろう。
震災前のような暮らしは、いつ戻ってくるのだろうか。本当に戻ってくるのだろうか。
心の底でずっと抱えていた不安が、涙になって溢れてきた。

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(自動販売機とポストが並ぶ場所に、八百屋があった)

1週間以上が経って、ようやく電気が復旧した。
そのとき、テレビではじめて津波の映像を目にした。
仙台で生まれ育った私は、沿岸部にもときどき遊びに行っていた。
映っている地域は、私が知っている場所のはずだった。
直視できなかった。
見覚えのある仙台東部道路の、海側にあったものがすべて消えていた。
あの日、もし私たちが「海を目指そう」と言って東に自転車を走らせていたら、もしかしたら。

津波の映像を見た日から、「生き残った」という言葉が私にのしかかってきた。

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東北食べる通信との出会い

それから1年ほど経った頃だったろうか。どの大学に進学するか考えようと、高校の進路室でパンフレットをパラパラと見ていたときに、「農業経済」という文字をはじめて目にした。

「発展途上国の食糧問題」「日本の食料自給率」
「農業を経済学、経営学、政治学、社会学といった社会科学の側面から考える」
直感的に、これだ、と思った。
震災のときに食料が手に入らなかったときの不安、八百屋さんで食材を買えた感動。
私のなかにあった色々な点が、一気につながった瞬間だった。

「私は農業経済を勉強して、日本の、世界の食料問題をどうにかするんだ」
そうすれば「生き残った」人間としても、恥じない生き方ができる気がした。
農業経済の学科に最短で進めるように。猛勉強の日々が始まった。

晴れて第一志望の京都大学農学部に進学してからは、真っ先に援農サークルに入った。
授業を受けながら農と食の現場を行き来することで、座学の学びと実体験を繋げたいと思っていた。朝7時から上賀茂の農家さんの畑に自転車で通い、野菜の世話をしてから一限の授業に向かった。

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(昼休みには、農学部横の道端で野菜を売った)

それでもなぜか、現場の感覚が授業の内容と結びつかない。
漠然と大学の授業への違和感を感じていた大学2回生のとき、「東北食べる通信」を運営するNPO東北開墾のコンセプトページにたどり着いた。

私たちはこれまで、衣食住、地域づくりを他人の手にゆだね、観客席の上から高見の見物をしてきたと言えます。誰かがつくってくれるだろう、誰かがやってくれるだろう、と。暮らしをつくる主人公(当事者)ではなく、お客様(他人事)でした。当事者を失った社会から活力などうまれようがありません。

わたしたちは考えました。
世なおしは、食なおし。

自分の暮らしを取り巻く環境に主体的に”参画”する。まずは、基本の“食”から。自分の命を支える食をつくる“ふるさと”を、一人ひとりがみつけてほしい。できるなら、その食をつくる人や海や土と、関わってほしい。自分たちの暮らしを手の届くところに取り戻すことで、自ら暮らしをつくりあげる喜びを思い出し、自然災害や経済的リスク、生活習慣病などを抱える脆弱な社会に備える。

わたしたちは、そんな思いを持って、東北開墾を立ち上げました。

東北には古くから、人も、海も、土も、支えあって生きる社会がありました。ほころんでいたとはいえ、まだ残っていたその支え合いの精神が、震災直後の被災地で生きる人々の命綱となりました。『東北開墾』はここから出発し、もう一度、人も、海も、土も、支えあって生きる社会を力強くめざします。
東北開墾HPから抜粋)

そもそも、受動的に消費することが前提になってしまっている食の経済システム自体がおかしいんだ。皆が主体的に食のシステムに参画することで、よりしなやかな社会になる。そして、そのヒントが東北にある。
この主張は、私が感じていたもやもやを代弁してくれた。そして、さらに私をその先に導いてくれた。

その夏、東北食べる通信でインターンをするため岩手県花巻市に向かった。20歳のときのことだった。
ちょうどそれと時を同じくして、東北食べる通信から派生して「ポケットマルシェ」のサービスが立ち上がった。YouTubeでその動画を見たとき、「私、ここで働きたい!」と声をあげた。

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(2016年の夏、東北食べる通信のイベントにて)

25歳のいま、もういちど向き合う

2018年、留学から帰ってきて、ポケットマルシェでのインターンを始めた。でも自分には正社員としてやっていけるほどの実力がないと、どこか遠慮をしていた。大学卒業後も、業務委託の形で部分的な関わりを続けていた。

2020年のコロナ禍。販路に困った生産者と、スーパーで思うように食材を買えない消費者がポケットマルシェ上に押し寄せた。食べ物のやりとりを通じた繋がりが日本全国に生まれた。個と個が通じてつながるポケットマルシェこそ、世の中に必要なサービスだと強く思った。

災害は、またすぐにやってくる。
だからこそ、私はしなやかな食のシステムを作ることに全力で自分の人生を使いたい。
あれからちょうど10年が経つ今、私はポケットマルシェにフルコミットする覚悟を決めた。

15歳のあの時は、10年後に自分が東京の会社でパソコンに向かっているなんて想像もしていなかった。
だけど、私は八百屋に入った時の感動を、アスファルトに転がるかぼちゃを見ながら大泣きしたことをずっと覚えている。

大丈夫、3.11を忘れなんてしない。

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※震災当時の食事について知りたい方には、震災直後の「ごはん」にまつわる写真展示「3月12日はじまりのごはんーいつ、どこで、なにたべた?ー」がおすすめです。

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◆ ポケットマルシェ × 3.11 特設サイトURL

◆ 産直SNS「ポケットマルシェ」


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