見出し画像

あひるのオルゴール

夏の暑さもやわらいだ九月の朝、風を通そうと屋根裏の物置を開けると、子どものおもちゃ箱が目に入った。

ピーピー音の出るボール、電話に積み木、子どもが幼い頃のおもちゃがギュウギュウに詰まっている。もういいかげん捨てなくちゃなぁと中を見ると、水色のアヒルがこっちを見ていた。何度片付けをしてもこれだけは捨てられない。たぶんこれからも…。

あれはもう二十数年前のこと。結婚三年目にようやく赤ちゃんを授かった私と夫は、嬉しさと不安の中で毎日を過ごしていた。お腹も大きくなり始めた頃、夫が二週間ほどアメリカへ行くことになった。そしてお土産に買ってきてくれたのが、このアヒルのオルゴールだった。

ニューヨークのSOHOでおもちゃを買ったという夫がとても頼もしく思えたが、「黄色のアヒルはありますか?」と英語で聞けなかったというのも夫らしくておかしかった。

アヒルのお腹にぶらさがっているひもを引くと、優しい音楽が流れた。まだ育児を知らない私にとって、その音色はすやすや眠る我が子の寝顔を想像させた。

水色のアヒル…、赤ちゃんは男の子かしら…、なんてのんびり考えながらオルゴールを聞いていた日々はあっという間に過ぎ、十月の末、私は女の子を産んだ。

そしてその瞬間から私の生活は一変した。

レースのカーテン越しに差し込む陽の光、オルゴールの音、おっぱいを飲んで眠る我が子を見つめる私…。そんな想像していたものはどこかに吹っ飛んでいた。赤ちゃんはよく眠ると聞いていたのに、オムツを替えて授乳をし、眠ったと思ってベッドに寝かせると、すぐに泣き始める。「背中にスイッチがついてるんじゃないの?」と冗談を言われるくらい、よく泣く子だった。

抱いている赤ん坊の横で、母や夫が入れ替わりそのアヒルのひもを引っ張った。そしてその優しい音色とは関係なく娘は大声でよく泣いた。

その曲さえも恨めしく感じ、そのうちひもを引っ張る「ジャッ!」という音がおまじないのように思えてきた。今度の「ジャッ!」で眠りますように…。しかし相変わらずオルゴールの効果はゼロだった。

そんなことを思い出しながら、ひとり薄暗い物置の奥で、アヒルのひもを引っ張ってみた。まるで過去からやってきたかのように、アヒルはあの時と同じ音色を奏でた。

初めての育児を一緒に過ごしてくれたアヒルのオルゴール。子どもがすっかり大きくなった今でも、私の大切な宝物である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?