見出し画像

【急がば回れ】(新釈ことわざ辞典)記事版

「大丈夫、時間取らないから」
「すぐ済むよ」
「実はね……」
急ぎの時を狙うかのように、どうでもいい話を長々としてくる人、いますね。目的地までの直線コースに《地雷原》があれば、大きく迂回するのが得策です。

会社勤めを始めた頃、趣味で書いていた小説はまだ商業誌デビューの段階には至っていなかったが、研究者でありながら社内親睦誌にショートショートを連載していた私は『珍獣』扱いされていた。
といってもほとんどの同僚は昼休みの食堂でたまに話題にする程度だったが、少数の例外もいた。

社員の9割近くが技術系だったその会社で、文系人材は総務など限られた部署にいた。

図書室の管理や文献複写依頼に対応する資料課の課長がそんなひとりだった。
私が入社した頃、既に50歳前後だったこの人は、窓際の課長席でいつも暇そうだった。ネクタイを律義に絞め、髪はきれいに撫でつけているが、たいてい鼻毛が伸びていた。
なぜか私はこの人物に気に入られ、そのフロアに足を踏み入れると、目ざとく見つけて、
「Pochiくん!」
と手招きしてくるのだった。

何か用かと近くに行くと、
「ま、どうぞ、ここに!」
と課長席の横にあるスチール製ゴミ箱を勧める。

どうぞ、どうぞ……と言われても
これ、椅子じゃないし……

仕方なく ── お尻がすっぽり中に落ちないよう気を付けながら ── 腰を下ろすと、
「この間の話、面白かったねえ! ほら、あの、漁師がきれいな人魚を探しに行ったら、網にかかったのが上半身が魚で下半身が人間の、しかも男の人魚で、背後から抱きつかれたっていう話! よくあんなこと、考えるねえ!」
「……はあ……ありがとうございます」
私は辺りを見回す ── やれやれ、また課長が ── という部下たちの視線を、そして、隣の課からも迷惑そうな気配を感じる。

勤務時間内に、しかも、基本的には静かなオフィスで、公私の『私』の部分について大声で喚かれることを、たとえそれが誉め言葉だとしても、多くのサラリーマンは好まないだろう。
ましてや、鼻毛を伸ばしたこの人物の口から、
「……上半身が魚で下半身が人間の、しかも男の人魚に背後から……」
などと発せられると、なんだか自分が途方もなくくだらない話を書いたようで、情けなさすらこみあげてくる。

「どうですか、次作は? もう書き始めているの?」
「まあ、ボチボチやってます……では」
と席を(いや、ゴミ箱から)立とうとするのだが、彼は逃がしてくれない。
「教えてくださいよ。今度はどういう話ですかね? ヒミツ? ヒミツなの?」
困っていると、たいていは部下の女性係長が、
「課長! もう! Pochiさん忙しいんだから! 課長みたいに暇じゃないんですよ!」
笑いながら助けてくれる。
「お、これは失礼!」
課長は頭を掻き掻き、ようやく解放されるのだった。

《地雷原》と呼ぶような危険地帯ではない。
でも、足を踏み入れたらどんどんぬかるみにはまっていく ── スチールゴミ箱ごと底なし沼に沈んでいくようなその課長席にはできるだけ近寄らないようにしていた。
けれど、特許課のオフィスも同じフロアにあるため、彼の『網』にかからぬよう発明考案届を提出したり、特許出願の相談に行くのは至難の技だった。
なんといっても、2基あるエレベーターでそのフロアに上がり、メインのドアを開けると、正面にその課長席があるのだ。

ある日、特許相談を終えた私は、特許課オフィスの近くに、小さな『裏口』があることに気付いた。
そこから出ると、緩慢な速度で上下する荷物兼用エレベータがある。
そして、廊下を回れば、正面のエレベータに行き着く。

それ以来、私はエレベータでそのフロアにあがると、ぐるりと廊下を裏手に回り、『裏口』から特許課に行くことにした。

まさに、【急がば回れ】の実践だった。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?