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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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#結婚

父を語れば [3/3] (エッセイ)

さらにさらに、間があいてしまいました……。 エピソードの取捨選択に迷いがあり……。 [2/3]では、旧満州から復員した父が1年間工業専門学校の土木科で学び、中堅ゼネコンで働き始め、20代半ばで父親(私の祖父)の銭湯での死、長期に渡る闘病生活を経ての結婚について書きました。 昭和30年代、40年代の高度成長期、特に道路、橋、さらには新幹線や高速道路網を必要とした時期にゼネコンで土木技師をしていた父は、経済的には幸運だったかと思います。 しかし、現場勤めで家族と会うのは月に1

なりたかった職業ランキング《同率第5位:ヒモ》

《薬草栽培農家》と同率5位の職業です。 第5位(同率) ヒモ 果たして、《ヒモ》というのは「職業」なのかどうなのか、異論はあるところでしょう。 でも「なりたかった」のは間違いないし、ある意味、「なってしまった」とも言えます。 私には2歳上の姉がおり、幼い頃から彼女とその友人♀たちとの「ままごと遊び」に付き合わされていました。 この状態は長期に渡って続き、高校生の頃には姉の友人たちと街に出かけたり、泊りでスキーに行ったりしました。 少し年上の女性に囲まれ、世話を焼かれな

来賓スピーチを頼まれた結婚披露宴前夜に新郎から《釘刺し》電話「明日はくれぐれも《常識》をわきまえてくださいね」 (エッセイ・披露宴スピーチ前編)

娘から、彼女の結婚披露宴で私が問題発言(問題行動?)をやらかすのではないかと警戒されていたことを記事(↓)の末尾に書きました。 彼女はかねてから父親のことを《危険人物》視しており、中学・高校の頃から、 「将来、結婚したい相手ができても、お父さんには会わせない」 「お父さんは結婚式には呼ばない」 と断言していました ── しくしく。 一応、式には呼んでもらえたので、当時と比べて、 ➀ 彼女が《寛容》になった。 ➁ 私の《社会性が向上》した。 のいずれかでしょう。 私を《危険

「その間の逸失利益です」と人事係長は小銭をジャラジャラ出してきた (エッセイ)

社員の慶弔に際して少額の祝い金や弔慰金を出す会社は多い。 私は既婚者として新卒入社したので、当然、結婚祝金はもらっていない。 最初の子供が生まれたのは入社後2年ほど経った後だったが、そもそもそういう《ルール》があることを知らなかった ── 出産日に特別休暇を取ってもいい、ということは勤務規則に書いてあったので、仕事を休んでビールをたらふく飲んでいたけれど。 それから2年後に2人目が生まれ、さらに1年ほど経ったある日、ヒラ社員だった私は、人事の係長から会議室に呼び出された。

「本社・工場」ってどこ?──大きく見せる (エッセイ)

学生結婚前後の話を、断片的に書いたことがあります。 ➀ 独身時代に愛用していた《キリンベッド》を、結婚で手放さねばならなかったこと、それに、 ➁ 大学院研究室の教授に頼まれて、息子さんに《将棋とキャッチボールの家庭教師》をしていたこと。 その時代に、もうひとり、書き留めるべき人物がいます。 妻は結婚前の1年間、北九州で教師をしていました。学年末の3月31日に入籍し、4月1日に結婚することになったため、退職し、東京で仕事を探すことになりました。 なお、入籍が結婚の前日なのは

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。 先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。 修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。 いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、 「おめでとう。これ、少ないけれど」 とお祝いをいただいた。 そして、 「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応

「映画館での共鳴現象エピソード」で「Congratulations」いただきました!

「#映画館の思い出」に応募した下記のエッセイで、先週分の「賞」をいただきました。《スキ》してくださった皆様、ありがとうございました。 「Congratulations」をいただいたのは、「#結婚」でいただいた《キリンベッド》エッセイ 「#忘れられない先生」でいただいた《テレパシー》エッセイ に続く3度目です。 どれも作者の思い入れのあるエピソードですので、《スキ》してくださった方々に、この場を借りて、3作分、御礼を申し上げます。 ちなみに、「Congratulati

さよなら、キリンベッド (エッセイ)

Good-bye, Kirin bed ひとり暮らしの部屋を出て、誰かと二人で住む場所に移る時、新しい住居の利用可能スペースとの関係はもちろんだが、特に同居相手の嗜好による制約から、それまで大事にしていたものを手放さなければならないことがある。 学生だったこともあり、その時の私は、ほとんど何も持っていなかった。 市場価値らしきものを持つのはコンポーネント・ステレオだけ、あとは机と椅子がひとつずつ、それらは相手に許容された。 けれど、ひとつだけ《別れ》なければならない《家具