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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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#大学

クレオパトラのワイン (試験の時間)

人生は《試験》に満ちている。 受験勉強が科目ごとに《パターン化》され、受験生はそのパターンを憶えることにより、偏差値を上げることができるそうですね。 「考える力を推し量る」のが本来の目的だった《小論文》や「人物を見る」ための《面接試験》ですら例外ではなく、既に《パターン化》されているらしい。 半世紀近く前ですら、《チャート式》と称する、 「ここだけ(=チャート箇所)憶えればいいからね」 的な参考書が既に勢力を拡げつつあり、 「余計なお世話だ! 俺はオレ流でやるぜ!」 とい

《感謝》の顕し方(エッセイ)

高校3年の時、大学進学後の奨学金給付生募集があった。 地元の企業からの「給付」、つまり返さなくて良いお金で、しかも、その会社に就職しなくてはいけないなどの「義務」も一切無かった。 金額はそれほど多くなかったが、それでも安アパートの家賃ぐらいに相当する額だった。 募集枠は3人で、そこに、同じ高校からボクを含む男子3人と女子1人が応募した。 女の子は、その学年で常に数学の成績がトップであり、最難関医学部志望の天才!だった。 面接試験の結果、彼女ひとりが落とされ、文系2人、理系1

詠み人知らず(エッセイ)

大学入学の年、GW明けぐらいから徐々に講義に出なくなり、泥酔して物理の試験を受けそこなったことをきっかけに、体育を含め全科目サボるようになり、「留年」を決めました。 当初は少林寺拳法部の練習に出るためのみキャンパスに顔を出していましたが、やがて道場にも行かなくなり、夏休み前には完全な《引き籠り》状態になりました。 といっても、自室に引き籠っていたわけではなく、旅をしたり、バイトしたり、隣のアパートに住む女の子を呼んでギター弾きながら宴会したり、麻雀したり、── きままに暮ら

女子高生の「あったらいいな」は20年後に大学の先生が「叶えてくれた」(エッセイ)

一昨日の日経電子版に、次のような次世代技術が紹介されていました。 《テレビの前で試食も 明大、味がわかるディスプレー開発》 要は、テレビで見ている食品の味を、基本とする10種類の味を組み合わせて再現する装置を開発した、というニュースです。 この記事を読んで、ちょうど20年前、2002年の7月に提出された、ある高校生の提出レポートを想い出しました。 このレポートは発想がユニークなだけでなく、その《発明》を描いたイラストも《簡明ながら秀逸》であったので、コピーに残しておいたので

何様のつもり?/Who does he think he is?

ロシアがウクライナの侵略を開始しました。 欧米各国は当然、激しく非難しています。 アメリカのバイデン大統領は、国際世論を無視して自分のやりたいようにふるまうロシア大統領に対して、 「プーチン大統領は《何様のつもり》で、隣国の一角を新しい国家だと宣言したのか」 と厳しく非難しました。 バイデン大統領の元の英語スピーチを調べてはいませんが、この、 《何様のつもりだ!》 という和訳の「元の英語」は、おそらく、 《Who does he think he is?》 だと思われます(

自分が想像する「あったらいいな」は他の誰かも想像してる (エッセイ)

このところ、約20年前の講義の宿題で、学生が提出してくれた「あったらいいな」のいくつかを眺めています。 その中に、ちょうどその頃私が書いたショートショートにかなり近いアイディアがありました。 業界誌に掲載し、このnoteにも再掲した話です。その内容は: ・エレクトロニック・ショート・サーキット(ESC)社で開発中のテレビ用画像処理装置《配役》は、ユーザーのテレビに映る、ドラマ出演者の顔を好みの誰か──例えば、自分や知人に挿げ替えることができる。 ・このためには、自分や知人の

《「あったらいいな」想像》に関する「ドラえもん」の功罪 (エッセイ)

工業高専で講師を務めた時に、次のような宿題を出し、翌日、学生にそれぞれの《商品企画》を発表・議論してもらった話を書きました。 (1)あなたが「こんなモノがあったらいいな」という製品を書いてください。できれば、イラストを使って表現してください。 (2)その製品は、どんな《技術上のブレイクスルー》があれば実現するでしょうか? 工専での講義を3年3回終えた後、今度は某国立大学の工学部から、短期留学生向けの講義を頼まれ、こちらは5年間務めました。 半年間だけ来日している種々の学

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。 先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。 修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。 いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、 「おめでとう。これ、少ないけれど」 とお祝いをいただいた。 そして、 「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応