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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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#学生

【濡れ手にアワ】(新釈ことわざ辞典)記事版

ソープランドのサービスの一種(らしい)。 ご存じのように、 《ソープランド》はかつて、《トルコ風呂》と呼ばれていました。そこで働く女性たちは《トルコ嬢》と。 《……風呂》まで続けて言うのならまだしも、通常の会話はこんな具合でした。 この人はもちろん、毎月「トルコ共和国」に出張していたわけではありません。 思えばひどい話です。トルコ人留学生が横で聞いていたら、怒り出すことでしょう。 実際、この会話が行われたのとほぼ同時期に東大地震研に留学していたトルコ人学生、ヌスレッ

「ことわざ辞典」を書き始めた頃と《ポリコレ》変化の波(エッセイ)

《新釈ことわざ辞典》を「つぶやき」モードで投稿開始したのは、ちょうどひと月前の5月20日からです。 この企画を思いついたのははるか昔、── 私が作家志望の学生だった頃です。 その半年前にキャンパスの印刷所で小説集を自費出版し、学園祭で販売しました。 赤字ながら完売はしたのですが、「次」が続かない。当時の出版は活字を組んでもらう必要があるため、かなりの費用がかかりました。 本を買ってくれた人の中に、大人びた女子中学生(2年、だったかな)がおり、喫茶店で会った時に、彼女が書い

「彼は《眠れる獅子》と呼ばれていました ── そして、とうとう、眠ったまま卒業していきました」 (エッセイ・披露宴スピーチ後編)

私に結婚披露宴での来賓スピーチを依頼しておきながら、《危険人物》に頼んだことを後悔し始め、前夜遅くに電話をよこし、 「明日はくれぐれも《常識》をわきまえてくださいね」 と釘を刺してきた「往生際の悪い」新郎の話です。 披露宴当日、東京の会場に出かけました。 バブル景気が始まるのはその1年後ぐらいですが、一流ホテルの中規模のホールを会場とする、超豪華な披露宴でした。 新郎の所属した研究室教授A先生の主賓スピーチに始まり、新婦側の主賓、新郎の会社上司、友人、……と挨拶が続いてい

誰かの「あったらいいな!」「こんなの欲しい!」は、誰かが実現する (エッセイ)

「再勉生活」中に研究室の同僚だった友人が、日本で工業高専の先生に就任し、この先生から2時間×2日がかりの「特別講義」を頼まれました。 これも、かなり前のことです。 学校で講義をするのは初めての経験だったので、なかなかうまく行かず、一方的な知識の伝達は、学生たちを退屈させただけでした。 翌年も頼まれたので、内容を見直し、知識の伝達に使う時間を半減させて、以下ふたつの「KAIZEN」を加えました。 ➀ 講義内容の材料を使った電子部品やデバイスを回覧して実演する、という《大道

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。 先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。 修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。 いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、 「おめでとう。これ、少ないけれど」 とお祝いをいただいた。 そして、 「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応

人材採用エピソードと組織のその後 1 試験とジャンケン

「人は城」と信玄は言った。 採用に関わる姿勢から、組織の将来の盛衰が予見できる──とはいえ、多くは後から振り返って初めて、《そういえば、こんなことが》、とうなずくのだが。 日本の大学の多くではかつて、企業から工学部卒業者への求人は、学科事務室を介して行われていた。 以下は、私が学部4年の時のエピソードである。 ある業界で、当時常に売り上げトップを争っていた2社から、学科にそれぞれ3人ずつの求人依頼が来て、掲示板に張り出された。 本社や工場が首都圏にあるA社には、そこそこ優