好きって言えよ

しばらく前のことだ。ときどき通っていたある銭湯が、突然に休業となった。営業再開の時期も明示されていない。店主の体調でも悪いのだろうか。近場の選択肢がひとつなくなって、少し寂しいような、物足りないような、残念な気持ちになった。

ほどなく、地元メディアの報道に触れた。その銭湯の従業員が事件を起こし、逮捕されたのだという。なるほど、休業のきっかけはこれか、とすぐに理解した。容疑の内容は、ただちに人命に関わるようなものではなかった。だけどそれは、店舗内での行為に関するもので、かつ利用客への加害性・背信性が強いものだった。

報道によれば、容疑者は故意性を否定していたが、同時に、行為そのものは否定できない状況であるように思われた。私自身に対する直接的な被害はなかったけれど、利用者の一人として、どこか裏切られたような、強く腹立たしい気持ちになった。同時に、それまで少なからずその銭湯を人に薦める機会があったことを恥じ入り、申し訳ないと思った。

ある著名な愛好家が、この事件に反応していた。容疑に至る行為そのものに対しては批判的な態度であったが、同時に「風呂に罪はない」とも言っていた。私は内心、「都合いいな。お前、風呂入りたいだけだろ」と思っていた。

確かに設備そのものに罪を問えるわけではない。だが、我々はしばしば、その施設の素晴らしさを、そこに集う客、店主、従業員の人間性や、そこに込められるストーリーに絡めて語りがちだ。彼らにしてこの風呂あり、という具合に。良いときは人のおかげと持ち上げながら、悪いときには人は無関係と切り離す。そんな矛盾を、快く受け入れる気持ちにはなれなかった。

ふと我に返る。私のAirPodsから流れていた音楽は、かつての不適切な言動が表面化し、事実上の活動休止に陥ったアーティストのものだった。奇しくも一時、配信停止となった楽曲だった。彼の行いはおよそ非難されるべきものではあったけど、「うるせえ聴かせろ」という思いの方が強かった。

当時、「曲に罪はない」「作品に罪はない」という意見をよく見聞きした。それは「作品まで取り上げなくてもいいじゃないか…」というやり場のないもやもやをインスタントに代弁し、楽曲を楽しむ権利を正当化してくれそうな口当たりのいいフレーズだった。そして実際、自分でも使っていた。
自己矛盾しているのは、まさに私だった。

風呂にも作品にも罪はある。作り手と完全に切り離すことはできない。だから、許せない人もいるだろう。当事者ならなおさらだ。

さりとて、罪のあるものを肯定したり、再起を望むことは、果たして罪だろうか。あるいは、そうなのかもしれない。実際に傷ついた人がいる中で、傷つけた側の肩を持とうというのだ。自分も非難の的になったり、恨みを買ったりするかもしれない。

だけど、作品に触れる機会を失った方だってさみしい、つらい、悲しい。仕方のないことだったとしても、やりきれない。そこに非難されるべき行いがあっても、赦し、更生を信じ、再起を願う。また利用したい、聴きたい、観たい。だってまだ好きだから。

願いが届くかは分からない。また裏切られるかもしれない。眉をひそめる人がいるかもしれない。かえって悲しむ人を生むかもしれない。だけど、好きってそういうことだろ。無批判に受け入れているわけじゃないけど、好きだという気持ちを、対象の無罪性に頼る必要なんて、本来ないはずだ。

だから、改めて自らに問う。
「罪はない」とかでごまかさずにさ。

好きなら好きって言えよ。

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