忘れてしまうようだ

息子が生後6か月目に入る頃だろうか、ひと月ぶりに帰省した。

末期の子宮がんを患っていた祖母は、退院期でうちにいた。当時、数か月ごとに会っていたが、会うたびに、動きが緩慢になり、ぼんやりしている時間が増えていた。明らかに、光が鈍っている。それでも、赤子を見ると元気になるのだ。手は震えこそすれ、その感覚は覚えているというように力強く胸に抱き、微笑む。

できるだけ、祖母を喜ばせたかった。特別おばあちゃん子、というほどではなく育ったはずだが、祖母が私を思う分くらい私も思い返したかった。遠く暮らす私のことを不憫がり(不憫なことなど何もない)いい人と結婚して幸せに(結婚だけが幸せではない)なってほしいと願っていたらしい祖母に、その通りになっているよ、と示してあげたかった。残された時間がわずかしかないことを知っていた。その年は、できるだけ帰省を重ねた。その「幸せな孫とかわいいひ孫」を見せるために。

帰省中に離乳食を始めることにして、祖母にお粥の炊き方を尋ねた。祖母が覚醒するのはきまって、赤子の声がするとき、赤子に触れているときだった。一緒にごはん、食べさせよう?

しかし、返ってきたのは「ばあちゃん、ようわからんわ…」という言葉だった。寂しそうに笑っていた。何ということもないのだというふりをして、私は土鍋に米と水を入れ、「こんな感じで炊けばええかね!」と見てもらった。そして、赤子を支えてもらい、一緒に離乳食デビューしたのだった。もう、長い時間起きているのが辛い時期だったのだろうと思う。

その秋の帰省の間に知った、もうひとつのこと。それは、祖母が漢字で自分の名前を書けなくなっていたことだった。玄関先で、何か契約更新のやり取りをしていたようだが、漏れ聞こえてきたのは「もう漢字で書けんのですよ、ひらがなでもいいですか、…」という声だった。笑いをにじませた声だったが、ひとつひとつと零れ落ちていく寂しさが伝わるようだった。

少しずつ、忘れていくのだ。返っていくのだ。そう思った。

祖母の一番の楽しみは、寝る前の、焼酎のお湯割りだった。湯呑に一杯だけ。両手のなかに大事そうに包み持って、祈るような形でベッドの縁に座っていたものだ。ある夜、その姿勢のまま目を閉じてぎゅっと口を結び、動かない。焦った私たちは「ばあちゃん、あのまま寝よんやない…」と囁き合った。

「起きとる」妙にはっきりした声で、泰然と答える祖母。それから薄目を開けて、ふふふと笑むようにして祖母は「味わいよっただけ、飲み込むのがもったいない」と答えた。なんじゃそりゃ、とみんなで笑った。紫のニットの帽子と薄桃色のパジャマ。働いてきた大きな手。小さくなった背中。

少しずつ、私も忘れていくだろう。思い出せないことが、増えていくのだろう。今は手の中にあるものを、たまには、陽に透かして眺めてみる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?