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すべてと無とはじまりと終わりについての話(5)

エリちゃんは電話口でまた少し泣いていた。 
「どうしてかはわからないけど、加藤くんが私に連絡して欲しいって言ったみたい。」 
秘密を知る人間は少ないほうがいい、それに彼女に知らせれば、少なくともぼく達には伝わると判断したんだろう。彼らしい。相変わらずクールで、そして冷酷だ。しかしそれが彼にとっての優しさなのだ。 
「ねえ。これは飽くまでおれ達だけの問題だ。君に迷惑をかけて申し訳ない。それはおれが謝るよ。加藤はそうすることがおれ達のためになると思ってそうしたんだから。でも君には関係の無いことだ。君には何も及ぶことはない。それはおれが全てをかけて保証する。それでおれ達のしたことは許してくれないか。」と僕はなるべく冷静に言った。 
「なにも、誰も責めているわけじゃないの。ただどうしてこうなったんだろうと思っているだけ。」とエリちゃんは少し平静を取り戻し言った。「それに私だってやったことがあるんだし、誰も責めることはできない。でも。」 
「もし、綿谷くんが加藤くんのことを喋ったんだとしたら。」 
「おれ達は友だちで、親友で、仲間で、一つの確固たるチームだ。綿谷が何をしようと、何を言おうと、おれ達はなにも変わらない。ルールはいろいろある。でもやつは嘘を言ったわけではない。それはルールには反していない。おれ達はなにも変わらない。これから何が起ころうと。」とぼくは言った。 
でもぼくは少し嘘をついた。「変わらないものなんてあるわけない。」でもその件についてはそれはぼくの真実だった。 
そしてもうひとつ、加藤がエリちゃんに連絡をしたのはぼくのためなのだ、あとぼく以外には最近薬物をやった人間はいないのだから。ぼくの知る限り。 

「ありがとう。あなたは優しい。」とエリちゃんは言った。「少し落ち着いたみたい。仕事に行かなくちゃ。何かあったら連絡を入れるね、あなたもなにかあったら連絡をちょうだい。」 
「大丈夫?」 
「うん。」 
「こんな事に巻き込んでしまって、本当に済まない。」とぼくは言った。 
「それはあなたから聞くことじゃないわ。」と彼女は少し笑って言った。 

コーヒーを入れて飲んだ、今日は学校に行ったほうがいいな。 
綿谷が加藤のことを喋るわけがない。なにか証拠のようなものがあったのだろう。 
例えば携帯の通話記録とか、綿谷と電話で話したのがいつなのかぼくには思い出せなかった。おそらくエリちゃんの言うとおり、頻繁に2人で遊んでいたんだろう。それで足がついた。ぼくは自分から言い出さない限り、薬物をやろうとはしなかった。2人に誘われたこともなかった。それもルールのひとつだ。 

コーヒーはひどく不味く、頭は割と混乱していた。それでぼくはビールを買いに行った。沈む直前の月がうっすらと見えていた。月は欠け始めているのだろうか、満ち始めているのだろうか。ユカリの生理のことを思った。考えがまとまらない。 

コンビニでビールを3本買い、部屋に戻って暖房をつけて飲んだ、少し寒い日のようだった。1本目を空けたとき、ナオから電話がかかってきた。 
「面倒なことになった。」とぼくは言った。 
「そうだな。」ナオは言った。「お前はどうするんだ?」 
「どうもしないさ、何かしたって怪しまれるだけだろ。普通さ。」とぼくは言った。 
「綿谷が加藤のことを喋るわけがない。なにか証拠があったんだろう。そしておれについてそれがあるなら、おれはパクられるだろう。それだけのことだ。」 
「まあそうだな。お前は、なんかこう、あれだ、淡々としているな。なんか少し妙に聞こえる。」とナオは言った。 
「今さら何もできることはないってことさ。」とぼくは言った。 
ほんとうはもう一つ意味がある。加藤がぼくを守るために、エリちゃんを少なからず傷つけることを承知でー加藤はそれがわからないようなやつではないーエリちゃんに連絡したことだ。ぼくは人を傷つけたくない、それはぼくが最もしたくないことの一つだ。でも間接的にせよ傷つけてしまった。加藤の気持ちは嬉しい。でもぼくはそれとこの結果について混乱していた。そして割とどうでもいいような気持ちになっていた。ナオの言うとおりだ。ナオはそれを察したのだろう。改めて思った。ぼく達はいいチームだ。 

「今日学校は?」ぼくは聞いた。 
「3時限目から行く。」とナオは言った。 
「おれは2時限目から行くよ。昼休みに来いよ、少し話をしよう。」 
「わかった。」 

2本目のビールを飲み、シャワーを浴び髭を剃った、そして3本目のビールを空けた。「なるようにしかならない」。そして別にぼくは自分のしたことについて後悔はしていない。身支度をして、髪をセットした、今回は割と気に言った。歯を磨いて、外に出た、外はけっこう寒かったので、結局ぼくはニット帽をかぶった。けっこう寒かったし、酒を飲んでいる、この状況で原付バイクで行くわけにはいかない。歩いて大学に向かった。 

2時限目より少し早く学校に着いた。休憩所には学科の奴らが何人かたむろしていた。ぼくはそこに行って、皆に軽く挨拶をした。「今日は早いじゃないか。」と誰かがいった。 
「なんか早く目がさめたんだよ。」ぼくは言った。「本当は今日は来ないつもりだったんだけどな。」「じゃあ今日囲むか?」と学科のやつが麻雀の手振りをして言った。「いや、今日はバイトなんだ。」ぼくは荷物を下ろして、飲み物を買いに行った。 
そこで少し雑談をしていた、あの授業は意外と出席が厳しいらしいとか、あの講義の去年のテストの過去問が手に入りそうだとか、学科のあいつとあいつが付き合っているらしいとか。ぼくはあいつもあいつも知らなかった。 

2時限目の哲学概論の講義を受けた、まあ本で読めばわかるような話ではあるのだが、講義はちょうどヘーゲルからニーチェへと哲学のパラダイムの変換のところに移っており、教授も幾分興奮している感じだった。近代哲学史においてもっとも重要な瞬間と言ってもいいだろう。ぼくも少し乗せられて、話に引き込まれていた。この人は割と面白く話をする人だ。たとえそれが少し情熱を持って本でも読めば理解できることであったとしても、人から教わるということにはそれなりの価値がある。教わるだけの価値のある人であれば。 

2時限目が終わり、昼休みが始まると、ぼくは軽食とコーヒーを買って、例の場所に向かった、ナオはそこに来るはずだ。 
寒さは少し和らいでいたが、そこにいるのがやっとという感じの寒さだった。ハンバーガーを食べながらコーヒーを飲んでいると、電話が鳴った。ナオからだろうと思って見ると、知らない番号だった。 
「佐藤さんの携帯電話ですか?」と唐突に相手は言った。 
「はい、そうです。」とぼくは言った。 
「渋谷警察署のものです。」と相手は言った。どうしてこいつらは知っていることをわざわざ確認してくるのだろう。 
でもそれでぼくは安心した。ぼくを逮捕するつもりなら、わざわざ電話なんて絶対にしない。 
「一昨日から昨日にかけて、あなたの友達の綿谷英之と加藤和人を逮捕しました。そのことは知っていますか?」と相手は言った。 
「エリちゃんから聞きました。」とぼくは言った。 
「エリちゃんとは誰ですか?」と相手は言った。 
お前のほうが知ってるんだろう。ぼくが知るか。とぼくは思った。 
「綿谷のガールフレンドで、吉祥寺に住んでいます。何回か訪れたことがあります。本名は知りません。エリちゃん。としか。」 
「そのことについて少しお話を伺いたいのですが、こちらに来ていただけませんか?」と相手は言った。 
「お断りします。聞きたいことがあるなら電話で済ませてください。答えられることなら答えます。」とぼくは言った。 
「どうしてですか?」と相手は冷笑のようなものを電話口からたしかに漂わせて言った、相手を見下しているというわけでもない、かと言って楽しんでいるわけでもなく、ただ時間を埋めるためにーそれも権威を示しながらー浮かべる警察官にしかできない笑いだ。 
「ぼくは忙しいし、関わり合いになりたくないからです。」とぼくは言った。 
「それに話すことも殆ど無い。彼らが何をしていたのかぼくははっきりとは知らないから。」 
「あなた方は友達なんでしょう?」とまた相手は冷笑しながら言った。 
「そうです。でもぼく達にはルールがあります。相手に迷惑をかけないってことです。」とぼくは言った。 
「困りましたねえ。少し面倒なことになるかもしれませんよ。」と相手は言った。 
「それがあなたの仕事なんじゃなんですか? 聞きたいことがあるなら電話で答えます。面倒なことにしたかったらすればいいでしょう。」とぼくは言った。 
そして電話を切った。 

ナオは来なかった、もしかしたらナオにも電話がいっているのかもしれない。 

せせら笑い。あいつらはいつもそれをして人を意味もなく陰鬱な気持ちにさせる。 
そしてそのことについて1ミリも考えてはいない。 

太陽は冬の空に薄くその光を輝かせていた、そのせいなのか月はもうどこにも見えなかった。全て丸く収まればいい。しかし今となってはそれはもう不可能になってしまった。欠け始めた月のように。しかし宇宙はまだその機能を失ってはいない。 

「けっきょくは何もかもうまくいきました。」そんな童話のように。 

 昼休みが終わりかけ、3時限目に行こうとそこを引き払おうとしたときに、ナオがやってきた。 
「もう行かなきゃだな」とぼくを見てナオは言った。「少し寝ちまった。」 
「さっき警察から電話が来たよ。」ぼくは言った。「話が聞きたいっていっていたけど、断った。聞きたいなら電話で済ませてくれって。」 
彼はぼくを面白いものでも見るように言った。「実は俺にも来た、話を聞きたいって言っていた。聞きたいんなら答えるけど、どうして俺がそこに行かなきゃいけない? 聞きたいんなら来ればいいって言っておいた。」こいつもぼくのことを気にしているんだとぼくは思った。「態度が気に食わなかったんだ。」とナオは言った。 
ぼくは笑った。「その通りだ。態度が悪い。」「お前は最高だ。」ぼくは言った。 
「いや、お前のほうがすごいよ。」とナオも笑って言った。 

ぼくらは旧校舎の階段を降りながら話をした。「電話がかかって来るってことはとりあえずおれには証拠がないっていうことなんだろう」とぼくは言った。「綿谷についてはわからないが、少なくとも加藤がそうしてくれたんだ。」とぼくは言った。 
「お前はほんとうに良く解っている、それを俺も言おうと思っていたんだ。」とナオは言った。 
「あとは綿谷の女のことだ。それが済めば、一週間もすれば落ち着くだろう、保釈金が払えれば、一ヶ月もしないで出てくるはずだ。問題がないわけじゃない、何もかも元通りってわけにはいかないけどな。」とぼくは言った。 

そして講堂の方に戻り、お互いの講義に向かって別れようとしたとき、ふと思い出したようにナオが聞いてきた。「お前は自分のことについてどう思っている?」 
彼が言いたいことはよくわかった。程度の違いこそあれ、ぼく達は薬物をやっていた、そしてたまたま、本当にたまたまぼくがその時やっていなかっただけのことなのだ、ナオはドラッグはやらない、煙草も吸うし、酒も飲むが、イリーガルなドラッグについてはマリファナでさえ彼は決して手を出さなかった。 
「ただ運が良かっただけだと思っている。」とぼくは言った。「お前は怒ると思うが、おれにとってはただのゲームだった。」「パクられる可能性も含めて。」「そして奴らはパクられた。おれは生き残った。程度の差はあったにせよ。」 
「俺がそう警察に言ったらどうする?」ナオは言った。「俺らはチームだ、そして俺はみんなに対して公正に接したいと思う。お前と奴らがしたことについては、確かに程度の違いはある、でも同じことだ。そうだな?」 
「そうだ。だからお前はお前のしたいようにすればいい。おれはそれを尊重する。」とぼくは答えた。「ただ、公正、という面から言えば、なにがたしかに起こったことなのかはおれ達にはまだわかっていないはずだ、何が起こって、どうしてこういう事態になったのかについて。そうだよな? その時点で公正を語ることはまだできないんじゃないかと思う。」「もちろん、ただ違法だということだけでお前がそうしたいんなら別だけど。」 
ナオは少し微笑んだ。「お前はたいした奴だ。」「そういう事をするんであれば、俺はお前らがクスリをやり出した時点で通報しなきゃいけなかったことになる。」 

そしてぼく等は別れ、それぞれの教室に向かった。 

3時限目は別に重要な授業ではなかったし、ほとんど出ていなかった授業だったから、講義には全く興味が持てなかった、ぼくはナオの言ったことを考えた。ナオはぼくがどう思っているか聞きたかったのだ、ぼくのことを今話すつもりなんかない。もしぼくが彼の質問について不適切な答えを返したら、彼はそうしたかもしれない。でもぼくがそうしないこともナオには分かっていた。 
「おれはお前らがクスリをやり出した時点で通報しなきゃいけなかったことになる。」と彼は言った。そんなことはない。ドラッグをやっていた三人の友だちのうち、二人が逮捕された。もう一人のことを彼が警察に言ったところでそれは公正さを欠いたことには全くならないはずだし、ナオはそれを理解している。 

ただまだ全てが明らかになったわけではない。それを知ってからでも遅くはないと思っている、いや、知ってからでないとするべきでないと理解している。ナオは自分がそうすべきだと思ったらそうするだろう。そういう奴なのだ、そしてぼくは自分で言ったように、それを尊重する。そうでなければ友だちになんてならない。 

3時限目が終わると、もう授業はなかった、サークルの人間にあったら面倒なので、ぼくはすぐ帰ろうとしたが、ユカリのことが気になった。少し休憩所で学生たちを眺めていた。そしてユカリにメールを入れた。「授業が終わったからこれから帰る。まだ落ち着いていないし説明ができない。」と書いて、少し迷ってから「君に会いたい。」と付け加えた。 

歩いて部屋に帰り、暖房をつけて音楽をかけ、適当な本を持ってベッドに潜り込んだ。 
いろんなことが起こる。とぼくは思った。どうしてこんないろんな面倒なことが起こらなくちゃいけないんだろう。と思った。どうしてもっとシンプルで、穏やかな生活じゃあってはいけないんだろうと。世の中はそうあるべきなのに、どうして様々な出来事や人々がそれをいちいち複雑にしていくんだろうと。 
もちろん誰に聞いてもぼく達が法を犯したからと言うに違いないだろうが。 

でも星はそういう事は言わないだろう。 

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